唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント9万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊された。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。
「悪い空気」と瘴気説
十八世紀以前は、多くの科学者が流行病の原因を「瘴気」と考えていた。瘴気とは「有毒な空気」のことである。腐ったものから発生した有毒な気体が、さまざまな病気の流行を引き起こすと考えられていたのだ。マラリアの語源がイタリア語の「悪い空気(マル アリア:mal aria)」であることも、瘴気説の名残である。
また、過去何世紀にもわたってヨーロッパやアジアで大流行したペストは、致死率八〇パーセントにもおよぶ恐ろしい病気だった。
医師たちは自らの感染を恐れながら、奇妙なくちばしのついたマスクをかぶって患者を診療した。くちばしの部分には大量の香料が詰められていた。これによって、瘴気から身を守れると考えたからだ。もちろん現在は、ペスト菌という細菌が原因であることがわかっている。
微生物が病気の原因になるとわかったのは十九世紀後半であり、抗生物質の開発は二十世紀以降のことだ。それ以前は、病気の根本的な原因はわかっておらず、その特効薬もなかったのだ。
現代に生きる私たちにとって、細菌やウイルスは病気を引き起こす恐るべき存在だ。しかし、十八世紀以前の人たちからすれば、目に見えない生物が体内に入り込んで増殖し、それが多くの病気を引き起こすなど、あまりに荒唐無稽に思われたに違いない。
イギリスの天才医師
そのような時代に、瘴気説に異を唱えた医師がいた。イギリスのジョン・スノウである。
一八四九年、ロンドンでコレラが大流行した際、スノウはその原因を詳しく調べたいと考えた。コレラは、激しい下痢や嘔吐を起こす病気である。今の言葉でいえば「急性胃腸炎」だ。
スノウは、もし空気に原因があるなら肺に症状が出るはずだと考えた。コレラの症状は胃や腸に現れる。このことからスノウは、病気の原因となる何かが口から入り、これが胃や腸に異常を引き起こすのではないかと考えたのだ。
コレラが糞便や吐物を介して広がる細菌感染症だとわかるのは、約四十年近く後である。スノウは当時から病因をほぼ正しく言い当てていたのだ。しかし、瘴気説が有力だった当時、スノウの報告は医学界から黙殺された。
一八五四年、コレラが再度流行した際、スノウは町の地図に感染者がいた場所を細かく書き入れた。この作業で彼は、感染者がブロードストリート周辺に不自然に密集していることに気づく。その中心には、住民が使うポンプがあった。このポンプの水が病気の原因であるのは明白だった。
スノウがポンプの取手を取り外し、水を使えないようにしたところ感染者は激減し、コレラの流行は三日で終息した。のちの調査で、排泄物がブロードストリートの井戸に漏れ出しており、これが水を汚染していたことがわかったのである。
だが、コレラの原因が水にあるというスノウの報告は無視され続け、相変わらずコレラは定期的に流行した。下水設備はなかなか改められず、スノウの提言は公衆衛生に反映されなかった。医学界は、やはり瘴気説を捨てられなかったのである。
【参考文献】
『図説医学の歴史』(坂井建雄著、医学書院、二〇一九)
『医療の歴史 穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』(スティーブ・パーカー著、千葉喜久枝訳、創元社、二〇一六)
(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)