反論されるのが怖くてSNSなどで発信できないという人も多いのではないだろうか。超人気社会派ブロガー・ちきりん氏は、他者からの言葉をまっすぐに受け止めすぎないための考え方があると語る。今回は、「現代を生きぬくための根幹の能力」を解説するベストセラーシリーズの最新作『自分の意見で生きていこう ――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップ』の発売を記念し、特別インタビューを実施。2005年にブログを開設し、長年発信をし続けてきたちきりん氏に話を伺った。(取材・構成/川代紗生、撮影/疋田千里)
SNSはエネルギーを使わなくても『意見』を言った気になれるツール
──今回の本の中では、SNS時代だからこそ、ありのままの自分を発信していくことを提案されていました。採用時に応募者のSNSアカウントを参照する企業も年々増えており、最近ではネットでの発信がキャリアアップに繋がるケースも少なくありません。とはいえ、不特定多数の匿名アカウントから誹謗中傷され、心を病んでしまう人も多い。ちきりんさんは、そういったネット上での意見に心を乱されたことはありませんでしたか。
ちきりん:2005年にブログを開設し、その5年後にツイッターを開始。以来、コツコツと発信を続けているうちに、ツイッターのフォロワー数は35万人を超えました。ブログもツイッターもなんども炎上していて、集団リンチ的な誹謗中傷の怖さはよく理解しています。
私はもう「オバサン」の年齢だし、ビジネス経験や慣れもあって、炎上の受け流し方も身につけていますが、感受性の強い若い人や、そういった経験に慣れていない人は大変だと思います。
あと、私が気になるのは、炎上させるほうに「お前の意見は間違っている! だから謝れ」的な理屈があることです。
今回の新刊で詳しく説明しましたが、この「意見を間違う」というコンセプトは、それ自体が誤りです。誰も「意見を間違う」なんてできない。意見には正しいも間違いもないからです。
でもそれがわかっていない人が多くて、「誰の意見が正しいか?」という議論や、「お前の意見は間違っている」といった指摘が多々見られます。この「意見には正しいも間違いもない」というのは、今回の本の中で、もっとも重要なメッセージのひとつです。
関西出身。バブル期に証券会社に就職。その後、米国での大学院留学、外資系企業勤務を経て2011年から文筆活動に専念。2005年開設の社会派ブログ「Chikirinの日記」は、日本有数のアクセスと読者数を誇る。シリーズ累計40万部のベストセラー『自分のアタマで考えよう』『マーケット感覚を身につけよう』『自分の時間を取り戻そう』『自分の意見で生きていこう』のほか、『徹底的に考えてリノベをしたら、みんなに伝えたくなった50のこと』(以上、ダイヤモンド社)など著書多数。
あと、私の意見に寄せられるリプライの大半は「反応」で、「意見」じゃないのですが、この「意見」と「反応」の違いも理解されていません。
ツイッターを見ていると、「意見」と「反応」の割合は「意見1:反応19」くらいの割合だと思います。とはいえ偏りがあって、意見が多い人もいれば、ほとんど「意見」を言わない人もいる。しかも「意見を言っているつもりになっているだけの人」も多すぎる。
──SNSが一般化したことによって、より多くの人が「自分の意見」を発信できるようになったとされていますが、ちきりんさんの解釈では、そのほとんどは「意見」ではない、と。
ちきりん:そもそも「意見」というのは、「自分のポジションをとること」なんです。たとえば何かの社会問題に対して、「私は〇〇に問題があると思う。なぜなら~」というように、自分の立ち位置をはっきりさせないと「意見」とは言えません。
ところが、多くの人は、他者が言った「意見」に対して「それはちょっと違うと思う」「一概には言えないよね」「ちきりんの言っていることはおかしい」などと「反応」するだけで満足してしまっている。それが「意見」でないことに気がついてないんです。
SNSというのは、「誰もが自分の意見を発信できるツール」と見せかけて、実は「『意見』を言った気になれるツール」です。特に「いいね!」ボタンやリツイートなどの機能を使えば、なにひとつ考えず、タップ一回で発信することができます。それらは「反応」にすぎないけれど、それでも「発信」ですから満足感が得られる。
自分を知らない人からの「アドバイス」の受け止め方
──「あなたはこうした方がいいと思うよ」とアドバイスのつもりでコメントする人も多いですよね。ときに、「よかれと思ってアドバイスしたのに、誹謗中傷と言われた。失礼なやつだ」と批判されている様子を目にすることもあります。ちきりんさんは、SNSを通じて寄せられる他者からのアドバイスについて、「受け入れるべき/受け入れなくてもよい」の判断はどのようにされていますか。
ちきりん:アドバイスというのは、相手の性格や状況を深く理解していないとできません。同じ質問をされても、Aさんには「転職したほうがいいよ」と言い、Bさんには「転職しないほうがいいよ」とアドバイスすることってよくあるでしょ。AさんとBさんの置かれている環境や、能力、適性がぜんぜん違うんだから、アドバイスも180度反対になる、そういうことはよくあります。
「家を買いたいのですが、買ってもよいと思いますか?」みたいな質問も受けますが、お金がたっぷりある人が買いたいなら「好きにすれば?」といいます。一方、雇用も不安定なのに頭金無しで家を買いたいという人がいたら、「やめておけば?」になります。アドバイスの内容は、アドバイスを受けるほうの状況によって正反対になりえるんです。
だからアドバイスをしている側の人が、質問者の状況や性格、経済力や能力を理解しているなら、アドバイスは「その人の意見」として成り立ちます。でも会ったこともない人からのアドバイスなんて、ほとんど意味がないんですよね。
──では、ちきりんさんは他者からの「意見」についてはどの程度参考にされるのでしょう?
ちきりん:どんな意見であれ、「ああ、この人はこういう意見なんだな。そういう考えの人もいるんだな」と思うだけです。
特にネット上の意見って、発言者は小学生かもしれないんですよ。もしくは、私には想像できないような壮絶な経験をしてきた人かもしれない。そういうバックグラウンドがわからないまま、誰かの意見を理解するのはとても難しいので、とりあえず「なるほど、そういう意見の人もいるのね」と聞き置くことしかできません。
どんな人かもわからない、ネット上の他人の言葉を全部まともに受け止めたりしていたら、それはちょっと生きづらそうですが、そんな知らない人の意見をたくさん聞くより、自分でしっかり考えることのほうに時間を使ったほうがいいんじゃないかなとは思います。
誹謗中傷されてもメンタルを病まないための心の整理術
──私は、ライターとして記事を書いていると、ときどき読者の方からのコメントが怖くなってしまうんです。「文章が稚拙」などと書かれたりすると、いちいち落ち込んでしまって。ちきりんさんは、そういった「一見妥当そうに見える意見や反応」に落ち込むことはありませんか。
ちきりん:「文章が稚拙」と言われたら、「きっと、この人の書く文章はとても高尚なんだな」と思っておけばいいだけかと。私のブログや本にたいしても「稚拙だ。何もわかっていない」と言ってくる人はいますよ。でも「そうなのか-」と思うだけです。
私が小さい頃、父親の本棚に並んでいる本は本当に難しい本が多くて、頑張って読もうとしても理解不能な本が多かったんです。昔の高校生って西田幾太郎さんの哲学書とか、本当に難しい本を読んでるんですよね。
でも私はそれらを読んでもチンプンカンプンで、まったく頭に入ってきませんでした。ネット上で私の文章にたいして稚拙だと言ってくる人は、日頃からそういう本を愛読している人かもしれないわけです。だとしたら、私の文章が稚拙に見えるのも当然だろうと思います。でもそんなこと、私が気にする必要があるとは思えません。
SNSにおいて私が気にするのは、そういった「どういう人かわからない人からの意見」ではなく、「数字」のほうです。ツイッターならどれくらいの人がフォローしてくれるのか、ブログならどれくらい読まれているのか。音声配信をどれくらいの人が聞いてくれて、本をどれくらいの人が買ってくれるのか。
自分が生み出せた価値は、そういった「数字」として現れます。顔の見えない人からのアドバイスなんかより、まずは数字を参考にすればよいのではないでしょうか。
これに限らず、ノイジーマイノリティを必要以上に意識せず、サイレント・マジョリティにしっかり向き合うことは、SNS上の立ち居振る舞いとしても、また、マーケット感覚としても、とても重要だと思います。
★連載第1回はこちら 日本人が知らない、リーダーシップと「自分の意見」の関係
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