「石原さとみになるのは諦める」という選択

きっと少しでも美容やかわいい女の子に興味がある人なら誰しもが覚えているだろう。

あの「失恋ショコラティエ・ショック」を!

そう、二〇十四年の月九ドラマである。松潤主演、石原さとみがヒロイン。

石原さとみの役どころは松潤をぶんぶんに振り回すものすごい小悪魔な人妻だった。

まさかあの野暮ったかった石原さとみがこんな色気をふりまく人妻の役をやるとは!

もうあのドラマの第一話を見たときの衝撃といったらなかった。

「え……だ、誰、これ!? 石原さとみ!?」

いや、石原さとみなのはわかっている。どう見ても顔のつくりは石原さとみだ。でも違う。何かが決定的に違う! 私が思い描いているウォーターボーイズ2に出ていたあの野暮ったい「石原さとみ」とは似ても似つかないのである。

口をあんぐり開けた私はこう思った。そして私が思っていたことと、まったく同じフレーズが、ネット上に溢れていた。

「石原さとみって、こんなにかわいかったっけ!?」

あれは一種の革命だったんじゃないかと思う。そう、石原さとみは革命を起こしたのだ。女優界にものすごい革命を起こしたのだ!

石原さとみ旋風はとどまるところを知らず、『失恋ショコラティエ』で石原さとみが着たふわふわのコートはすぐに完売し、ネット上は「サエコファッション」と呼ばれる(サエコとは石原さとみのドラマにおける役名である)キラキラOL的コーディネートに身をつつむ女子の写真で溢れた。

一体石原さとみに何があったのか。石原さとみは何をしてあれほど垢抜けたのか。

よく巷で言われる石原さとみが垢抜けた要因は二つである。

①痩せた

②眉毛を整えた

「眉毛変えただけで女って変わるんだな~」などと大学の男友達も言っていた。

いや、でも、違うのである。

それだけじゃない。眉毛だけじゃない!

何か、根本的な何かが、石原さとみを変えたのだ。「野暮ったい石原さとみ」から「いい女の石原さとみ」へと変貌させたのだ!

私も石原さとみになりたいと思った。あんな風に、かわいらしく、美しく、表情豊かで、それでいて色気もあって、若作りしていない大人になりたいと思った。

どうしたら私も石原さとみになれるんだろうと思った。

例に漏れず、私もサエコさんファッションを試してみた。あんまり似合わなかった。

その後も石原さとみが出ているドラマはほぼチェックした。ドラマの役柄が変わるたびに、石原さとみはコロコロと表情を変え、違う雰囲気を身に纏う。小悪魔、元気な子、サバサバ系のデキる女……。どれも全然違う役だし、違うファッションだ。でも石原さとみのかわいさは変わらないのだ。

どういうことだ、と思った。石原さとみはどんな魔法を使ったっていうんだ。そしてどうしたら私も石原さとみが使っている魔法が使えるようになれるんだ。どんな修行をすればいいんだ。

わからなかったけれど、とりあえず石原さとみの真似は続けた。

「石原さとみ風メイク」と呼ばれるメイクはだいたい試した。髪型も石原さとみ風にゆる巻きにしてみたりした。眉毛も整えた。

うーん、でもどう頑張っても、似ても似つかない。どういうことだ。

でも、突然はたと気がついてしまった。

いや、どういうことだも何も、当たり前である。この顔じゃ石原さとみにはどう頑張ってもなれない。顔のどのパーツを取っても石原さとみに似ているところがない。目が二つあって鼻が一つで口が一つであること以外に石原さとみと共通している部分が見当たらない。

もう無理だわ。

こうして私は石原さとみになることを諦めた。どうあがいても私は石原さとみのようなキラキラオーラを纏うことはできない。無理だ。所詮私なんかにそんなことはできなかったんだ。くやしいけど……遺伝子がそうできているのだから仕方がない。

そうして、気がつかないうちに、ありふれた服を着た、全く印象に残らないような社会人が出来上がっていた。

「石原さとみになるのは諦める」と決めてしまってからは、ふわふわOL系の服も着ないし、髪も暑苦しいので短く切ってしまった。今の私を誰が見ても石原さとみになりたい女だとは思わないだろう。

でも、正直に言ってしまうと、私が「石原さとみになりたい」と思わなかった日はない。未だにだ。無理だとはわかっていても石原さとみになりたいのだ。次から次へと表情を変えられる魅力がほしい。自分もあの雰囲気を身に纏いたい。あの石原さとみだけの魅力がほしい。

そう思いながら、私は「石原さとみ」を検索して癒やされる日々を送っていた。石原さとみの画像を毎日見ていれば、何か空気みたいなものが画面を通して伝わってきて、ちょっとずつ石原さとみになれるんじゃないかという希望を抱きながら。

そうして悩んで、むしゃくしゃして、何を着てもどんなメイクをしても似合わないような気がしてきて、大学も卒業して、みんなからチヤホヤされるような立場じゃなくなったある日、私は一つのずるい手段に出ることにした。

それが、「もう女捨ててるわ作戦」である。

「仕事忙しすぎるからもうオシャレとかしてる暇ないわ」

「最近全然服買ってない」

「若いっていいよね、キャピキャピしててさ。私もファッションのことばっか考えていられる生活送りたーい」

聞いてないよ。誰も聞いてない!

でもそのときの私にはそんな客観的な意見など耳にも入らない。「会社に入った」「忙しくなった」「もう女捨ててる」という免罪符を手に入れたことによって、「女」というリングから降りられたような気になっていたのだ。

もう女子大生みたいにキャピキャピとかはしゃげる気力ないよね。

私がほしかったのは「必死でオシャレして女子力アピールしている子たちに張り合うなんてみっともないことしないから」という言い訳である。「オシャレしない」「女として魅力的になる努力をしない」と言いながらも、そうアピールしていること自体が「焦ってないいい女アピール」なのだということになんか気がつかずに、私は自分が女としても人としても成長していると勘違いしていたのだ。

石原さとみになりたい。

でも、「女磨き」してること自体がなんかダサいような気がする。

完全なる矛盾だった。