SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察する。

「華がない人間」でも努力すれば「華がある人間」になれるのか?Photo: Adobe Stock

私は頑張り屋で真面目だった。だけど…

「華がある人間」と「華がない人間」、この違いって何なんだろう。思えば、私は子どもの頃からずっとこのトピックについて悩まされていたような気がする。

 今でも忘れない。幼稚園児の頃のことだ。

 私は今とは違って天真爛漫で、明るくて、みんなを笑わせるのが好きな子どもだった。絵を描くのも、鬼ごっこをするのも好き。学芸会では主役をやった。『不思議の国のアリス』のアリス役だった。物怖じせず、きちんとセリフも覚えて、演じることができた。そういうしっかりした子どもだったのだ。

 頑張り屋で、真面目。先生にはよく「何事にも一生懸命ですね」と言われる。一言で言えば、優等生。委員長キャラ。クラスのリーダーや、代表を選ぶときも、必ず私の名前が出た。そういうタイプだったのだ。そして私自身、子どもながらに、自分が生まれつき「いい子」に分類される人間であるということを自覚していた。そのことを誇りに思ってもいた。自分がアリス役を演じることに対して疑問も抱いていなかったし、自分なら誰よりもうまく演じられるだろうという自負もあった。

 だから事実、本番も全力で演じることができた。終わったあと、会場は拍手喝采。家族にも褒められたし、先生にも「さきちゃん、上手だったね」とたくさん言われた。私は自分に課されたことをきちんと全うできた自分を誇らしく思った。

 学芸会の帰り、私はご機嫌で、母と手をつないで幼稚園を出た。たぶん結構疲れていたのだと思う。母親が「さきちゃん、すごく上手だったよ」と言ってくれるのを聞いて、私はようやく緊張の糸を解くことができた。

 満足げにふと前を見ると、かわいい妖精の役を演じていた、Sちゃんが歩いていた。

 Sちゃんは美人で脚が長くて、頭の回転も早かった。マイペースでたまにわがままも言うけど、それでもSちゃんの周りにはいつも自然と人が集まった。不思議と何をやっても様になる子だった。幼稚園児ながらも、学年の女の子はみんな、Sちゃんにはどう足掻いてもかなわないということを、本能的に察知していたのだと思う。誰もがSちゃんを褒めそやし、Sちゃんに憧れ、Sちゃんの言うことには必ず従った。

 Sちゃんはいつも、輪の中心にいた。

 その学芸会のあとも例外ではなくて、Sちゃんの周りには、たくさんの女の子が集まっていた。

 Sちゃんを囲んで、みんなキャッキャと話をしていた。何の話をしているのかまでは聞こえなかった。劇の感想を言い合っていたのか、そのとき流行っていたポケモンの話をしていたのか。たぶん、どうでもいいようなことだったんだろうと思う。でも私はSちゃんたちが楽しそうに話している光景から、目が離せなくなった。