SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察した書き下ろしエッセイ。
「すごいと思われたい」だけが承認欲求ではない
いやー、うーん、なんか違うんだよ。そういうことじゃないんだよなあ。
つい最近のことである。ツイッターでとあるつぶやきを目にしたとき、私は思わず画面に向かってそう文句を言いたくなってしまった。ま、別に会ったこともない赤の他人のツイートだったから、ただちょっとひっかかっただけでそのままスルーしちゃったんだけどさ。
簡単にまとめると、「承認欲求に振り回されて生きる人生はつまらないからやめましょう」みたいな感じの内容だった。あなた、周りの人に認められるために生きてるんですか? すごいと言われるために生きてるんですか? 違うでしょ。たしかに、SNSが発達したおかげで周りの人たちの暮らしが一瞬で見られるようになりました。親指をスッスッスッと動かせば何十人、何百人の暮らしが、仕事ぶりが、恋愛模様が、哲学が、言葉が一気に流れ込んでくるようになった。だからこそ、周りと自分を比較したくなってしまうのはわかる。SNS世代の若者なら、なおさらそうでしょうね。周りと比べてしまう癖がついているんだろうと思います。けれども、そんなことでは本当の人生は手に入らない!! 今やSNSは、他者と自分、どちらが優れているか張り合うためのツールと化していますが、そんなことではいけません。「他人に認めてもらうこと」を目指すのではなく、自分で自分を認められるようになろうじゃないですか。自分の存在を自分が受け入れてあげないと、永遠に他者からの「すごいね」という言葉を待ち続けることになってしまう。そんな人生、もったいないではないか!! 承認欲求なんて捨てて、若者よ、自分のことを好きになって自分らしい、楽しい人生を送りましょう!! そのための方法はプロフで紹介! フリーランスで月収40万を叶えるスキルと合わせてお伝えしてます。周りの目を気にせず、好きなことをして稼ぐ自由な人生を手に入れませんか?(ウインクしてる絵文字)
……とまあ、こんな具合である。最後の方はだいぶ脚色しているが(おい)、だいたいの趣旨は合ってるからよしとしよう。
で、その人の一連のツイートはそこそこいろいろな人に読まれていて、コメント欄は「おっしゃる通り。ありのままに生きよう」「私も承認欲求から解放されるようになってから人生がラクです。人の目なんか気にしない~♪」みたいな「アンチ承認欲求」勢によって埋め尽くされていた。なるほど、どうやら「承認欲求などムダである。さっさと捨てたほうがいい」というのはかなり多くの人の中でコンセンサスを得られているようだ。
そうか、まあ、そうだよなと頷きながらも、私は何か、腑に落ちない、言いようのない気持ち悪さを抱えていた。たしかに私自身もこの29年間、ずっと承認欲求に悩まされてきた。人に認めてほしいと思ってしまう。つい周りの目を気にしてしまう。初対面の人とは「変な奴と思われたらどうしよう」と気になってうまく言葉が出てこないし、最近じゃ周りの友人たちが次々と結婚・出産しまくっているから「私はなんでいまだに貯金も10万しかないの……」と焦る気持ちがブワッと湧き上がってきてしまっている。まさにこれを「承認欲求」と呼ぶのだろう。そして、そういう感情を持つことに対して、異議を唱えたくなるのも非常によくわかった。
ただ、彼らが言っていることが何か的外れなんじゃないか、という気持ちがあるのもまた、事実だった。「他人にすごいと思われるために頑張る。そんなモチベーション無駄でしょう」と「アンチ承認欲求」勢は度々口にする。肩の力を抜いて、自分らしい人生を歩みましょうよ、と。
いや、違うのだ。そういうことじゃない。たしかに「承認欲求」というと、どっちが上か下か張り合うマウント女子みたいなイメージが先行する。でも違うんだよ、私が持ってるのは、そんなんじゃなくて。
私の場合、「承認欲求」というのは「他人からすごい人間と思われたい」とか「上の人間だと思われたい」とかそういうのじゃなくて、ただ、「仲間外れにされたくない」みたいな、そういう感情なのだ。