東京、東北、名古屋……トラブルを起こし流浪の生活
先に述べた通り、1990年の入国管理法改正以降、浜松は“ブラジル人の街”になっていた。ブラジル在住の日系2世や3世、さらに、クリスチャンのような直接的には「日本人の血」を受け継いでいない場合も含め、その家族に対して職業選択の制限のない在留資格が与えられた。
当時の浜松には、すでに1500人ほどのブラジル人がいたが、法改正の影響は大きく、それから10年のうちにその数は1万人を超え、2007年には2万人近くまで迫ろうとしていた。浜松の人口規模は80万人ほど。全体から見れば「ごく一部」ではあるが、工場労働を中心に、労働力として不可欠な存在になっていたのは確かだ。
シャッター通りとなった商店街のブラジル人専門スーパーには人が溢れ、週末になると、若いブラジル人がクラブで夜通し踊り明かす。街には、生活が安定した暁に家族を呼び寄せ、一家で暮らすブラジル人の姿が見られる一方で、ギャングファッションに身を包み、タトゥーを彫り込んだ日系ブラジル人の子弟も目立つようになっていた。
2007年、私がクリスチャンと知り合った頃、彼はふたたび両親を頼って浜松に戻っていた。
多少のポルトガル訛りはあるものの、流暢な日本語を操りながら飲食店で働くクリスチャンは、活気を増す“ブラジル人の街”の取材に訪れた私たちを快く受け入れてくれ、「若者たちが集まるクラブの撮影がしたい」「不良少年にも話を聞きたい」といった希望をあっさりと叶えてくれた。ブラジル人社会の中にあっても、クリスチャンの「感じのよさ」は特別であり、人気があった(それも彼の本性を知るまでの話ではあるが)。
「近いうちに、東京にも来ればいいよ」
クリスチャンとの別れ際にそう伝えると、がっちりと手を握ってきた彼は、眼を輝かせながら「東京、いいですね。いつか“進出“したいって思ってたんですよ」と語った。
取材からわずか一週間後、突然、クリスチャンから電話が入る。
「いま、東京に着きました」
その後、無事に東京での仕事も決まり、冒頭のように私の家に転がり込んだクリスチャンは、一週間で去っていった。
しかし、私の家を後にし、彼の知人宅で居候をしている時に事件が起こる。仕事帰りに泥酔した挙句、路上に止められていた自転車を盗んで警察に連行されたのだ。連絡を受けた両親が身元の引き受けにやってきて、親元で暮らすことを条件として釈放され、そのまま浜松へと戻っていった。
その後は、以前世話になっていた東北地方のキャバクラ経営者を頼って某県へと向かい、そのまま店で働き始めることになる。そこからの1年ほどは、それなりにまじめに働いていたようで、最後は一軒のバー経営を任せてもらっていたものの、またしても酒によるトラブルを起こした結果、昔の友人を頼って名古屋へと移り住んだ。名古屋でも大手キャバクラチェーンで働き始め、クリスチャンはここでも社長にかわいがられた。
そして、2009年の冬、キャバクラの同僚数名と東京のキャバクラ店の視察にやって来た時、新宿で彼と再会することになる。スーツをビシっと着こなし、羽振りもよさそうだった。「今度、名古屋で新しい店を任せられるんです。この世界で成功してみせますよ」と、元気そうに語っていたクリスチャンの姿を覚えている。
しかし、クリスチャンは、どこへ行っても「負の呪縛」から逃れることができなかった。それから名古屋で新規出店したバーの経営を任せられたが、やはり酒とカネでトラブルを起こしてしまう。さらに、当時はクスリにも手を出しており、それまで以上に荒れた生活を送っていたという。