孔子が生きた時代の政情
周公旦の時代からおよそ500年後に、孔子は誕生しました。
時代はすでに春秋時代の半ばをすぎ、乱世に入っていました。
周室に関係の深い由緒ある魯の国も、周辺の強国によって国境を脅かされる小国となりはて、政情も不安定でした。
孔子の父は魯に仕えており、大夫の身分を得て、役人よりも軍人として活躍していました。
ただ孔子の父は、孔子が幼いときに死去し、母も彼が10代のときに亡くなったようです。
孤児となった孔子は、なんらかの伝手(つて)を探して、勉学の機会を求めたといわれています。
特定の師について学んだという記録は残されていません。
勉学を続ける中で、孔子は魯に縁の深い周公旦に強く惹かれたようです。
国を安定させ民を治めるために、彼が定めた儀礼や制度のおかげで周の時代は「四海波(しかいなみ)静か」で平安だった、と孔子は想像したのでしょう。
一方で彼が生きていた当時の魯は、政情が乱れていました。
彼は周公旦の時代にあった礼の精神(儀礼や制度)が現在の魯にも必要だと考えました。
その想いを実現させようと、彼は魯に仕官しました。
しかし仕官は実現しましたが、自分の理想を実現できるような国政の仕事には就けませんでした。
そのうちに魯の派閥闘争に巻き込まれ、亡命同然に魯を出国する羽目に陥りました。
魯で働いたり辞めたりを何度か繰り返すうちに、一所懸命に礼の精神を説く孔子の思想に影響されて、弟子入りする若者も出てきました。
孔子もピュタゴラスのように、思想家として自分の教団をつくり、その教祖のようになっていきます。
けれども魯の君主は最終的に孔子を招聘(しょうへい)しませんでした。
50代半ばの頃、孔子は自分の思想を魯の国で、実際の政治に役立てることを断念します。
しかし自分が考えている理想の政治を、なんとか実現したいという思いは断ち難(がた)く、実現できる国を求めて諸国歴訪の旅に出ます。
それに、多くの弟子たちが同行しました。
この本では、哲学者、宗教家が熱く生きた3000年を出没年つき系図で紹介しました。
僕は系図が大好きなので、「対立」「友人」などの人間関係マップも盛り込んでみたのでぜひご覧いただけたらと思います。
(本原稿は、13万部突破のロングセラー、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)