バカは強い、バカは愛される、バカは楽しい、バカは得である――。国民的長寿お笑い番組の“黄色い人”として老若男女に大人気、バカの天才である林家木久扇師匠(84)が、バカの素晴らしさとバカの効能を伝える『バカのすすめ』を出版した。
世の中が息苦しさに覆われ、「生きづらさ」という言葉が広がる今こそ、木久扇師匠が波乱の体験や出会いから導き出した「バカの力」「バカになれる大切さ」は、ひときわ大きな意味を持つ。バカという武器に助けられた人生で起きた波乱の出来事や、「あの番組」の共演者&歴代司会者についての愛あふれる考察など、初めて明らかにする秘話もたっぷり。笑いながら読み進むうちに多くの学びがあり、気持ちがどんどん楽になって、人生観も見える景色も変わる一冊。この連載では本書から一部を抜粋し、再編集して特別に公開する。(構成 石原壮一郎)

【林家木久扇が語る】「笑点」降板のピンチを救ってくれたあのお方写真/榊智朗

初高座は客席も楽屋も静まりかえった

 初めて高座に上がったのは1961(昭和36)年の春。23歳のときでした。

 思い返せば、このときもかなりバカなことをやりましたね。新宿の末廣亭で夜席の新前座で働いていたとき、タテ前座の先輩が「昼席が伸びちゃったから、誰か短くやってくれないか」と困ってたんです。まわりの前座仲間が口々に「木久ちゃんがいいよ。まだ高座に上がってないのは木久ちゃんだけだし」と言い出した。要するに、新人ですからやりづらい役を押し付けられたんですね。

 短くって言われても、小噺をつなげてもたせる技術はないし、ただひとつ覚えた「寿限無」は15分あります。困ったなと思って、やぶれかぶれで歌を歌いました。歌はどう歌っても3分ですから。忘れもしません。当時流行っていた森山加代子さんの『月影のナポリ』です。立ち上がって踊りながら「ティンタレラ ディ ルナ」ってね。

 見慣れないヤツがいきなり歌い出して、お客さんも面食らっていました。それ以上に面食らってシーンとしちゃったのが、楽屋です。冷たい視線が集まってきて、居たたまれない雰囲気っていうか、何とも言えない甘酸っぱい気持ちになりました。

 そんな中で、ひとりだけ面白がってくれたのが、当時は三遊亭全生って名前だった先代の圓楽さんです。「あなたは歌うねえ。歌うんだ。そうか、高座で歌うんだ」って言って、ずっと「ホッホッホッホ」って笑ってた。そのときはヘンな人だなと思いましたけど、ずいぶん気持ちが楽になりましたね。

 それから寄席で会うたびに、ぼくが「お先に失礼します」って高座に上がろうとすると、ニコニコしながら「今日は何を歌うんだい」って。

 その後も、何かと気にかけてくれました。高座で落語をやらずに流行歌をいきなり歌い出すなんて、完全に掟破りですよね。でも、圓楽さんはそれを買ってくれました。

最初は大喜利メンバーのお荷物だった

 ぼくが「笑点」のレギュラーメンバーになって圓楽さんと座布団を並べるのは、それから8年ぐらいあとです。

 最初の頃は、はっきり言ってぼくは大喜利メンバーのお荷物でした。

 小圓遊さんがキザで売って、歌丸さんがハゲで売って、圓楽さんが星の王子様で売って、みんな売り物があったのにぼくには何もなかった。

 談志さんに言われた「与太郎」のキャラも、どう打ち出せばいいかよくわからない。しかも、テレビ慣れしてないもんだから、当時の司会の前田武彦さんに「それじゃあ木久蔵さん」って指されて答えを言うときに、テレビカメラの上のタリーライトっていう赤いランプがつくのを待ってた。すると、ヘンな間があくんです。

 当時のプロデューサーが小暮美雄さんっていう人で、とうとう注意されました。

「木久ちゃん、君ねえ、いつもなんだけどね、どうしてすぐにしゃべってくれないんの」
「えーと、タリがついてからしゃべるようにしてるんです」
「それはこっち側のことで、ちゃんと映るんだから気にしなくて大丈夫。すぐにしゃべって、面白いこと言ってよ」

 話すタイミングについての注意は一度だけでしたけど、「面白いこと言ってよ」は何度も言われました。たぶん、かなり面白くなかったんだと思います。流れを崩さないようにしながら、自分の個性を出さなきゃいけない。ついつい周囲に気をつかい過ぎちゃって、どうにもうまくいきませんでした。