源義経が兄・頼朝に出会うまでに歩んだ知られざる「壮絶な半生」Photo:PIXTA

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、ついに菅田将暉演じる源義経が本格登場した。義経といえば、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝の弟で平家討伐に大きく貢献した人物だ。しかし源平合戦に参戦する以前の義経の人生については、あまり知られていない。史料をひもとくと、“異端児”義経が形成されていった理由が見えてきた。(歴史学者 濱田浩一郎)

源義経の知られざる生い立ち
頼朝と対面するまでの道のりとは

 源義経は、平家討伐に功績を重ねながら、異母兄の源頼朝に疎まれて悲劇的な最期を迎えた武将として名高い。しかし、その生涯、特に前半生は謎に包まれている。義経はどのようにして歴史の表舞台に立つことができたのか。比較的信頼できる史料を中心に、謎に包まれた義経の生い立ちについて見ていこう。

 義経が歴史の表舞台に現れるのは、治承4(1180)年10月、富士川の戦いで平家の軍勢を蹴散らした頼朝と、駿河国・黄瀬川で対面した時であろう。頼朝は異母弟・義経の遠路からの訪問を喜び、兄弟は涙の対面を果たすのであった。『吾妻鏡』はその時の様子を「お互いに往時を回顧し、涙した」と記すが、それに続き、義経の幼少の頃からの経歴を次のように記載している。

「平治2(1160)年正月、赤ん坊の頃に、父・源義朝が亡くなったので、継父・一条長成の助けによって、出家のために鞍馬(京都府)に登る。成人の時に至って、しきりに(平家への)復讐の念に燃え、自ら元服する。奥州の藤原秀衡の勢威をたのみ、奥州に下向、そこで長年月を過ごす。

 頼朝が挙兵したとの知らせを聞き、義経が奥州を立とうと望んだところ、秀衡は義経を同地にとどめようとした。よって、義経は秀衡の邸を逃げるように出立した。秀衡は、義経の旅立ちを抑えることができなかったので、佐藤継信、忠信の兄弟を義経に付けた」

 平治の乱によって、父・義朝を幼少の頃に亡くした義経。母の常盤は、夫亡き後、貴族である一条長成と再婚した。その長成の支援により、義経は出家のために、鞍馬山に登った。

 しかし、元服に際して、平家を討つことに執念を燃やした義経は、鞍馬寺を出奔。奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せ、長年過ごすが、頼朝挙兵の報を聞き、黄瀬川の陣にはせ参じたというのである。