そんな折、日本経済は昭和金融恐慌に見舞われ、31年に米国発の世界恐慌が広がり、英国の金輸出禁止を機に金本位制が崩壊する。その際に三井財閥はドルの思惑買いに走ったことで、世論から激しい非難を浴びる。32年、三井財閥の持ち株会社、三井合名理事長の団琢磨が右翼団体の血盟団により暗殺され、後任に池田が三井合名の筆頭常務理事に就任する。そして、池田の後任として万代が三井銀行の常務に就任した。さらに、池田が37年に三井合名を退任し日本銀行総裁に就任すると、万代は三井銀行の会長に就任。ほぼ池田の後を追うように要職を担うことになる。その後、43年4月に三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行が創設されると万代は初代頭取(後に会長)となり、全国銀行協会連合会会長も務めた。
今回の記事は「ダイヤモンド」1955年12月5日号に掲載された、万代とダイヤモンド社の創業者・石山賢吉の対談である。万代は第2次世界大戦の終戦後、公職追放を受けて財界を引退していたが、53年から東京通信工業(現ソニーグループ)の会長に就いている。
東京通信工業は井深大と盛田昭夫が46年に創業したが、この若い2人を支えたのが万代ら、財界の長老たちだった。初代社長は井深の義父、前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)で、前田は資金繰りなどの相談を田島道治(昭和銀行頭取から宮内庁長官)や万代に寄せていたという。そうした縁で万代は若いベンチャー企業に晩年をささげた。実は万代は盛田とも縁が深く、名古屋支店長時代に愛知県常滑市で造り酒屋を営んでいた盛田家と取引があり、子ども時代の盛田と会ったこともあったのだという。
子どものいなかった万代にとって、井深や盛田、ソニー自体が子どものような存在だったのだろう。後進の育成には熱心で、母校である青山学院にソニーの全持ち株を含む個人資産のほとんどを寄付した。今も青山学院では、「万代奨学基金」として奨学金や教育研究資金に用いられている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
銀行に終始一貫
三井のドル買いの真相
――終始一貫、三井銀行で過ごされたわけですが、入社は明治40年で……。
そうです。
――それから欧米出張に……。
内地勤務を何年ぐらいやりましたかね……ちょうど関東大震災のときに行ったのですから……入社して17、8年たっておりますね。
――海外に行かれた目的は……。