本田健氏 絶賛!「すべての幸せがこの1冊に詰まっている!」
『92歳 総務課長の教え』の著者で、大阪の商社に勤務する92歳の玉置泰子さん。「世界最高齢の総務部員」として、ギネス世界記録に認定された現役総務課長だ。1956(昭和31)年の入社から総務一筋、勤続66年。「私に定年はない。働けるかぎりは、いつまでも頑張る!」と生涯現役を誓う“世界一の先輩”が、長く幸せに働く63の秘訣を手とり足とり教えてくれる。
「世界最高齢の総務部員」として
ギネス世界記録に認定
私は1930(昭和5)年大阪生まれ、大阪育ちの浪速っ子で、2022年で92歳になります。
いまでも平日午前9時から午後5時半までフルタイムで勤務しています。勤務先は大阪市西区にある「サンコーインダストリー株式会社」という、ねじ専門商社で、「総務部長付課長」として働いています。
現在のおもな仕事内容は、経理事務とTQC(全社的な品質管理)活動事務局の運営です。
今年で勤続66年。会社からは、「100歳まで現役で頑張ってください」といわれていますし、私もそのつもりです。
2020年11月には、「世界最高齢の総務部員」としてギネス世界記録に認定されました。
この世界一の称号は、私にとって想定外の出来事で、大きな励みになりました。
これも一日一日を地道に積み重ねた結果です。多くの仲間たちに恵まれて、会社とともに成長できたことは、私の貴重な財産になっています。
私はかつて新卒採用のプログラムやツールをつくる仕事を任されていました。いまでも、新入社員研修で仕事の基本について講義したり、創業者の奥山好太郎、現会長(2代目社長)の奥山泰弘、現社長の奥山淑英という3代にお仕えしている“語り部”として、会社の歩みについて語ったりしています。
現会長よりも11歳年上で、勤続年数も長いことから、私にしかわからない経緯も少なくないからです。
本書では、私の経験を踏まえながら、66年の社歴で身につけた仕事への向き合い方、失敗を恐れずにチャレンジを続けるための心構え、上司と部下が踏まえるべき作法といったことをお伝えしたいと思います。
みなさんが仕事をスムーズに進めるうえでのヒントにしていただければ幸いです。
本題に入る前に、私のこれまでの社歴を振り返っておきましょう。
私がサンコーインダストリーに入社したのは1956(昭和31)年、25歳のときでした。この年の『経済白書』で「もはや戦後でない」と高らかに宣言され、戦後の日本が高度経済成長へと向かう地固めをはじめた頃です。
その頃の社名は、「三興鋲螺株式会社」でした。鋲螺は「びょうら」と読み、「ねじ」を意味します。
私が入社する10年前の1946(昭和21)年、創業者で前会長の奥山好太郎が「木ねじ専門問屋」として創業した会社です。そして、三興とは「社員よし、お客様よし、仕入れ先様よし」という、三方よしを目指すという意味です。
実は、いまの会社は、私にとって3社目の職場です。そこに至るまでには、次のような紆余曲折がありました。
私が15歳だった1945(昭和20)年、約4年間続いた太平洋戦争が終わりました。奇しくもこの年、一家の大黒柱だった父親が亡くなりました。56歳の若さでした。
父は生まれつき小柄で身体が壮健なほうではなく、戦時中の徴兵検査では「丙種(へいしゅ)合格」となり、いまだからいえることですが、幸いにも戦地に送られることはありませんでした。
丙種合格とは、身体検査の結果、「甲種」「乙種」に次いでの合格ではあるものの、現役には適さず、「国民兵役」に編入されるものです。
父は「聯合紙器株式会社」(段ボールで知られる「レンゴー株式会社」の前身)で働き、終戦の年に定年を迎えたのですが、終戦にともなう膨大な残務処理に追われているうち、それまでの度重なる無理がたたり、定年後に亡くなってしまったのです。
15歳の私の下には12歳の妹、それに8歳と5歳の弟がいました。当時、母は39歳でしたが、お嬢様育ちで身体も丈夫でなかったことから、「父に代わって、私が頑張らないと一家が路頭に迷ってしまう」という義務感が私に芽生えたのです。
あのときの義務感は、今日まで私が働くうえでの原動力になっています。
大阪府内の商業高校を卒業した私は、すぐに働きはじめました。
最初の職場は、学校の推薦で入った生命保険会社でした。総務部に勤務しましたが、いろいろと事情があって3年で退職しました。
その次は紡績会社に勤務。ここでは労務関連の仕事を任されていました。ですが、他社との合併で、会社が大阪府から三重県へ移ることになり、小さい弟たちがいて大阪を離れられないことから、退職せざるを得ませんでした。
そして、従姉妹の紹介で入ったのが現在の勤務先、サンコーインダストリーというわけです。
【次回へ続く】