建前と本音

 政治の建前が儒教から共産主義へと看板をつけ変えただけのようにも見受けられます。

 一般の民衆は、建前としての儒教の教えに従って先祖や親や家族を大切にし、世の中の進歩に合わせて生きていく。無法者は法で裁かれる。

 そして法家や儒家がまじめすぎて、バカバカしいと思う知識階級には、老荘思想があったわけです。

 このように諸子百家の思想は、共存が可能であり、中国社会の主だった階層の人々がそれぞれに心を寄せられる思想を、階層別にうまく用意したようにも考えられます。

 このような思想の棲み分けが可能であったことは、社会の安定に大きく寄与しました。

 しかし、いつの時代であっても、中国を体制的に取り仕切っていたのは法家である、という現実が存在したことが大切な点でした。

 つまり、一般民衆向けの棲み分けのカードは、表が儒家・裏が法家だったのです。

 そして、インテリ向けには道家が用意されていました。

 このような思想の棲み分けは唐の中期(8世紀前半)に至り、国家仏教が民衆に根を下ろしていくときにも生じました。

 中国の仏教界は、三武一宗(さんぶいっそう)の法難(ほうなん)と呼ばれる4回にわたる大弾圧を受けています(中でも会昌(かいしょう)の廃仏(はいぶつ)は有名です)。

 その経験から、国家の保護に頼るだけではいけないと考えたのです。

 民衆は難しいことはわからないからと、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けるという浄土教が布教されて、中国に拡がりました。