源頼朝と義経、異母兄弟の対立に巻き込まれて苦悩した一人の女性をご存じだろうか。静御前――義経の愛妾である。頼朝と対立した義経と共に行動し、別れ、その後鎌倉で悲痛な運命に翻弄されることになった静御前の生涯について解説する。(歴史学者 濱田浩一郎)
源義経の愛妾・静御前
その謎に包まれた生涯
源義経の愛妾・静御前。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 では、女優の石橋静河さんが演じる。義経の妻が静御前だと思っている人もいるかもしれないが、実は義経の正室(正妻)は、武蔵国の豪族・河越重頼の娘である郷御前という女性だった。静御前は、側室の立場だったのだ。
静御前に関しては、生まれ年も亡くなった年も分かっていない。その前半生の多くは特に謎に包まれているが、静は白拍子(しらびょうし)だったといわれている。
白拍子とは、平安時代末から鎌倉時代にかけて流行った歌舞を生業(なりわい)とする女性のこと。遊女のような側面もあり、当時の権力者と関係を結んだりもしていた。平清盛と祇王、後鳥羽天皇と亀菊などの関係がよく知られている。それらの女性と比べても、静御前は白拍子の中でトップクラスの著名人といえるだろう。
静御前は『平家物語』や『義経記』などの軍記物語のほか、鎌倉幕府の出来事を記録した『吾妻鏡』にも登場している。
『吾妻鏡』に静が最初に登場するのは、文治元(1185)年十一月六日の項目だ。このとき、義経は兄・頼朝打倒計画に失敗し、京都を離れ、摂津国から九州へ船で逃れようとしていた。そのような危難の中にある義経と共に行動していた一人が、静だったのだ。『吾妻鏡』には義経と行動を共にする者は、伊豆有綱(源有綱)、堀景光、弁慶、静の4人だけだったと記されている。
義経が静といつ出会ったかは定かではないが、義経が木曽義仲を打倒し、京に入った後の1184年以降といわれている。そう考えると、義経と静が出会ってわずか1年で、2人は相当強い絆で結ばれていたことが分かる。
義経一行は暴風雨のために難破し、九州行を断念。畿内にとどまった。1185年11月17日には、義経が大和国の吉野山(現在の奈良県)に潜伏しているとのうわさが流れていたようだ。吉野山にある蔵王堂(金峯山寺の本堂)の僧侶らが義経を必死に捜したという。しかし、その姿は見つからなかった。
そんな中、11月17日の夜10時頃、静が蔵王堂にやってきたと『吾妻鏡』にはある。静の様子が不審だったので、僧侶は問いただした。