黒田日銀総裁が2013年に就任した際「グローバル・スタンダード」と強調していた2%のインフレ目標。ようやくそれに達しようとしている今、国民の強い反発にさらされている。いま、国民の求めている「物価安定」とはなにかをもう一度考える必要がある。
「家計は値上げ許容」発言への強い反発
2022年6月6日、黒田東彦・日本銀行総裁は、講演で「家計が値上げを受け入れている」と述べた。
この黒田総裁の発言に対しては、Twitterでは「#値上げ受け入れていません」というハッシュタグがトレンド入りして大きな話題になるなど、世間から強い反発があり、黒田総裁は発言撤回に追い込まれた。
6月15日、岸田文雄総理は国会閉幕後に記者会見し、物価高や景気対策のため「物価・賃金・生活総合対策本部」を設置すると明らかにし、みずからが本部長に就く、とした。物価高騰については、「最大限の警戒感を持って対応する」と述べ、「迅速かつ総合的な対応策を検討し、断固として国民生活を守り抜く」とした。
黒田総裁は2013年の就任記者会見で「2%の物価目標をできるだけ早期に実現するということが、日本銀行にとって最大の使命」とし、そのために採用したのが異次元緩和だった。また、2%のインフレ目標は「グローバル・スタンダード」であることも強調し続けている。
それから9年経って、ようやくインフレ率が2%に達したときに、政府が物価高騰対策に奔走し、物価高が参議院選挙の争点になっている状況をどう整理したらよいのだろうか。日本の物価安定目標のどこに齟齬があるのか。それを考えるうえでは、国民の求めている「物価安定」とはなにかをもう一度考える必要がある。
「物価安定」とはインフレを気にしなくて済むこと
1951年東京生まれ。1974年東京大学経済学部を卒業し日本銀行入行。1983年シカゴ大学Ph. D.取得(経済学)、筑波大学社会工学系助教授、日本銀行金融研究所長、京都大学公共政策大学院教授などを経て、現在―大妻女子大学特任教授、京都大学公共政策大学院名誉フェロー。専攻は国際経済学、金融論。著書に『期待と投機の経済分析――「バブル」現象と為替レート』(東洋経済新報社、日経・経済図書文化賞受賞)、『ポスト・マネタリズムの金融政策』(日本経済新聞出版社)、『金融政策のフロンティア――国際的潮流と非伝統的政策』(日本評論社)、『日本銀行』(ちくま新書)、『経済の大転換と日本銀行』(岩波書店、石橋湛山賞受賞)、『金利と経済――高まるリスクと残された処方箋』(ダイヤモンド社)など。最新刊は、『人の心に働きかける経済政策』(岩波新書)。
黒田総裁が「グローバル・スタンダード」としてしばしば主張するように、現在、多くの国で2%程度の消費者物価上昇率を物価安定目標としている。この指標は、経済を定量的に捉えたい経済学者や、日々モニターで物価指数の動向をフォローしているようなエコノミストには、わかりやすく受け入れやすい、というメリットもある。
しかし、一般国民にとっては必ずしもそうではない。
普通の人々が日々、消費者物価指数の定義に沿って物価上昇率を計算したり、その上昇率を予想したりして暮らしているはずはないからだ。一般国民にとっての物価安定は、FRB議長時代のアラン・グリーンスパンが定義したようにむしろ物価上昇を気にかけなくてよい状況だろう(グリーンスパンは物価安定を「人々が、経済的な意思決定における一般物価の予想される変化を考慮しなくなったときに得られる」と定義した)。
こうした物価安定の考え方は、数値的な定義よりも日常的である。多くの人が健康だと感じるのは、痛みや食欲、睡眠などの異常がなく、健康を意識しなくてよい状態であり、血圧や体温など特定のバイタル・データに集約するのは難しい。金融についても金融システムの安定は、人々が銀行の経営に無関心でいられる状態であり、必ずしも一定以上の銀行の自己資本比率によって得られるものではない。
家計の収入が高く伸びれば2%程度のインフレは気にならない
どのような状況なら、人々は2%のインフレを気にかけないのだろうか。
もし、賃金が毎年数%ベアで上がっており、退職世代の年金についても物価スライドにより実質価値が保証され、十分に金利が高く金利収入が確保できたりしていれば、家計は2%程度の物価上昇をあまり気にしないだろう。
しかし、日本のように家計を支える収入がじりじり下がる世界では、物価が1%上がるような状態にも強い抵抗感を持ちがちになることが予想される。四半世紀を超えてゼロインフレが続いてきた日本では、それが社会規範になっている、との見解も見られるが、その背景には、こうした構造があるだろう。
「インフレはそれ以上に賃上げ率を高める」という幻想
これらのことを踏まえて、異次元緩和の出発時点の状況を振り返ってみよう。異次元緩和が始まったのは2013年4月である。その約1ヵ月後の5月7日、内閣府が出した経済財政諮問会議提出資料はこの点で興味深い。
この資料では、「海外をみると、物価安定目標を設定するなどして、2%程度の物価安定に向けて取り組んでいる国々では、名目賃金上昇率が物価上昇率と同水準、あるいはそれを上回る傾向にある」とされている。
そして、2000年以降のいくつかの国の具体的数字(米国では名目賃金上昇率は3.3%で消費者物価上昇率は2.5%、英国では名目賃金上昇率は3.3%で消費者物価上昇率は2.2%等)を挙げている。これらの国では、賃金上昇率が物価上昇率を上回っていた。しかし日本については、この期間、これらの国に比べ物価上昇率が相対的に低いだけでなく、名目賃金が消費者物価下落率(マイナス0.3%)をかなり上回って下落していた(マイナス0.8%)、という点で他国と大きく状況が異なっていたことが分かる。
内閣府資料は当時、政府が、日本が2%の物価安定目標を達成すれば、なんらかの理由で2%以上に賃金率が上がり他の主要先進国と同じ好循環が起きる、という期待を寄せていたことがうかがえる。
ただし、その根拠は金融政策には内在しない。そもそも、先行してインフレ率を上げれば、それ以上に賃金上昇率が高まるというシナリオは、現実には大きな弱点を抱える。インフレ率が賃金上昇率を上回る状況では実質所得が目減りするから家計の生活防衛意識が高まり、需要の6割を占める個人消費が減少して経済全体が失速しかねないからだ。
ちなみに、黒田総裁も、異次元緩和導入の約1年後の2014年3月の講演で賃金について触れている。そこでは、内閣府資料ほど楽観的な期待を示していたわけではない。しかし、賃金が上昇せずに、物価だけが上昇するということは、普通には起こらない、物価の上昇に伴って、労働者の取り分である労働分配率が下がり続けることになってしまうからであり、こうしたことは、一時的にはともかく、たぶん長く続くとは考えられない、と述べている。つまり、物価上昇を許容していればいつかは賃金上昇が追いかけはじめるだろう、という前提で、異次元緩和への理解を訴えていたことになる。
しかし、賃金・実質所得が上がらない状況では人々は値上げに対し寛容になることはなく、生活防衛的に反応し続けた。ゼロインフレは社会規範として定着し、日銀の「物価安定への取り組み」への認知度はじりじり下がり続けた。
家計への共感の欠落がもたらす政策への逆風
日銀が家計や中小企業の懸念に敏感でないのは、マクロの視点に立ち、日本全体があたかも「一人の経済主体」であるように擬制したロジックで経済を捉えていることも一因だろう。
このことは、現在、大きな懸念を持たれ始めている円安による輸入物価の上昇の影響についての黒田総裁の説明にも表れている。
黒田総裁は6月6日の「きさらぎ会」の講演で「わが国の交易条件悪化の主因は、あくまでもドル建ての資源価格の上昇であって、為替円安ではありません。ドル建ての資源価格の上昇は、輸入物価だけを上昇させますが、為替円安は、輸出物価と輸入物価をともに押し上げるため、交易条件に対し概ねニュートラルです」と述べている。
しかし、輸出物価上昇の恩恵を受けるのは輸出企業であり、輸入物価上昇によって生活を直撃されるのは家計等である。あたかも同じ一人の主体が右手で恩恵を受け、左手で損失を被り、差し引きの影響がほぼゼロ、というようなロジックは、一方的に負担増に直面している家計の円安への懸念に対しては説得力を持たない。こうした家計への共感の欠落は、金融政策への不信と反発を増幅しかねない。
ただし、異次元緩和スタート時に比べれば、賃金上昇率の重要性についての日銀の認識はより深まっていると思われる。だからこそ黒田総裁は6月6日の講演で、「コロナ禍における行動制限下で蓄積した「強制貯蓄」が、家計の値上げ許容度の改善に繋がっている可能性がある」という強い批判を浴びた主張の述べた後で、日本の家計が値上げを受け容れている間に、良好なマクロ経済環境をできるだけ維持し、これを来年度以降のベースアップを含めた賃金の本格上昇にいかに繋げていけるかが当面のポイントである、としたのだろう。
とはいえ、これまでの経験は、賃金が十分上昇できる環境がつくれない限り、2%のインフレ目標がグリーンスパンの定義する物価安定と両立するような環境は達成できないことを強く示唆している。この点からみると、良好な「マクロ経済環境」は好況による総需給バランスの改善を超え、実質賃金の持続的上昇が可能になるよう環境でなければならない。DXや人への投資などさまざまな議論が盛り上がり始めているのは、そのことと無関係ではないだろう。