「今の星野リゾートは、この本がなければ存在しなかった」。星野リゾート・星野佳路代表がこう語るのが『社員の力で最高のチームをつくる』だ。なぜ本書は、多くの読者に読み継がれているのか。それは、本書の内容をそのまま実行することで組織を劇的に変えることができるからだ。星野氏はこうも語っている。「書かれている内容を一言一句、そのまま実践することだ」。本連載では、星野氏が本書の内容を実践した際のエピソードを3回にわけてお伝えしていく。前編はこちら

星野佳路代表が語る「星野リゾートを激変させた1冊の経営書」【後編】OMO7大阪 ご近所マップ

3つの鍵が融合した

 顧客満足がどのように収益に結びつくのかというブラックボックスの解明に社員全員で取り組むために、私たちは旅館の収益情報を社内で公開することに踏み切った。

 企業の存続、そして社員の生活にとって利益が大事であることは誰もが理解してくれた。

 顧客満足を高めていくことが収益の安定に結びつくであろうという仮説も理解してくれたが、どうやってこの2つの数字をバランスよく両立させながら向上していくのか、これが経営のテーマであり、それを社員全員の共通の課題としたのだ。

 このとき、星野リゾートのビジョンを「リゾート運営の達人になる」と設定した。達人とは、顧客満足度と収益率を両立させることができる実力を持つ運営会社と定義した。

 これは本書に出てくる第2の鍵である。社員の自由な発想、議論、そして行動を真に奨励するために、ビジョンと価値観を明確にし、「自律的に行動できる仕事の領域」を設定したのだ。

 これが第2の鍵の意義であるが、私たちはそれを無視して、第3の鍵で自由だけを奨励するという失敗をしていたのである。

 収益情報を公開することで、スタッフは使えるお金が限られていることを初めて理解してくれた。

 顧客満足の改善提案においても「食器を買い直すと、どのくらい収益が上がるのだろうか?」という本質的な思考が生まれ、有意義な議論ができるようになった。

 さまざまな節約の工夫が発想され、やりたいことのために削減すべき他のコストの提案も出てくるようになった。

 今まで経営幹部だけが頭を悩ませていたプロセスを多くの社員が一緒に悩んでくれるようになったのである。

 もう1つの大きな変化は、決めたことに対する社員のコミットメントだ。自分たちで辿り着いた結論であり、その背景も理解している。

 なぜこうするのかがわかっているので、実行するチームは最良の結果を出そうという意志を持つようになった。

 顧客満足や収益は会社の実力を示す情報であり、経営者が公開することをためらうのは自然だ。社内で公開すれば、それが社外に漏れることを覚悟する必要があるからだ。

 しかし、自社の実態を競合他社が把握することが、実際にどの程度自社の競争力を弱めるだろうか。

 私はこの問いに何度も自問自答したが、「経営者として恥ずかしい」という個人的な問題以外はないという結論だった。

 恥ずかしい姿をさらすことで、社員の信頼を得ることができる。それはいずれ恥ずかしくない会社になっていくために必要なことだったのだ。

 ここまでが1990年代に私が星野温泉旅館で本気で取り組んだエンパワーメントの旅である。

 私はその後、単にこのプロセスを他の地域の多くの施設で繰り返してきた。そしてエンパワーメントされた各地のチームが自律的に顧客満足度を改善し、新しい魅力を生み出し、収益を改善してくれた。

 温泉旅館の「界」が全国の施設で提供する界タビ20's、北海道トマムの雲海テラス、星のや京都の空中茶室、青森の苔旅など、これらの大ヒットサービスの中で私が自ら発想したものは1つもない。

 軽井沢のブライダル事業は、市場縮小期に20年間業績を維持し続けているが、私が関与していたのは最初の5年だけだ。

旅立ちのすすめ

 ケン・ブランチャード理論の根底にある理念は、これからの企業が活用すべき資産は人材の能力であるということだ。

 つまり、資金や土地、または今ある技術の資産で競争優位を持続できる時代ではなく、組織にいる人材の脳をいかに活性化させるかが勝負どころであるという教えである。

 私が新しい施設の運営を担当させていただき、その施設に長く勤めるスタッフたちと出会い、一緒に仕事を始めるときに感じるのは、マネジメントは社員の能力の半分も活用できていないということだ。

 ホテル・リゾートの現場で言えば、目の前のお客様に満足してほしいと思う社員の気持ちが能力なのであり、自由な環境を整えることで、その気持ちを発想と行動に変えてもらい、今まで抑えられていた社員のエネルギーを解き放つ。私がやってきたことはこれだけだ。

 エンパワーメントの旅を日本の組織に当てはめるのが難しい原因は、私たちの文化にある。米国では職務や年齢に関係なく、ファーストネームで呼び合う。

 そしてYouとIしかない英語は対等な議論をしやすい言語だ。日本では苗字のあとに「様、さん、君、ちゃん」などさまざまな言葉をつけるが、それは上下関係を示す信号でもある。役職名で呼ぶことも一般的だが、それも目上の人を敬う配慮の表れだ。

 エンパワーメントされたチーム組織では、権限を持ったマネジャーはいても、「偉い人」はいないという組織文化を定着させる必要がある。

 正しい選択肢を探すために議論している段階では、完全に対等に意見交換ができる環境を維持しなければならない。

 誰が言っているかが重視される議論は機能しない。説得力ある意見が誰に遠慮することなく自然に重視される環境が必要だ。

 自分の発言が人事や評価につながってしまう懸念がある状態では、正しい議論はできない。思ったことを言うことが目上の人に対して失礼になる懸念もマイナスだ。

「今日は無礼講で意見を出してほしい」という表現を聞くことがあるが、そもそも無礼があるというのは上下関係を認めた発言であり機能しない。

 完全にフラットな人間関係が定着している世界では、そんなことを言う必要もないのだ。

 星野リゾートでは、総支配人やマネジャーを役職名で呼ぶことを禁止し、「××さん」と呼ぶことをお願いしている。

 総支配人やマネジャーが社員を呼ぶときも同様で、年齢男女に関係なく「××さん」と呼ぶことをルールにしている。日本でフラットな組織文化を定着させるための工夫の1つだ。

 米国でもある程度似た事情は存在し、ケン・ブランチャード教授は、上下関係文化が引き起こす課題を打破する唯一の方法は、組織トップの強いリーダーシップだとしている。

 トップが真にフラットな人間関係を築こうとしない限り、組織のエンパワーメントは不可能だ。そして、それを組織の隅々まで浸透させる努力を継続的に行う必要がある。

 本書の教えは素晴らしいのであるが、実現するには覚悟が必要であり、「それは1分間では不可能」、ケン・ブランチャード教授はそう言っているのである。