「今の星野リゾートは、この本がなければ存在しなかった」。星野リゾート・星野佳路代表がこう語るのが『社員の力で最高のチームをつくる』だ。なぜ本書は、多くの読者に読み継がれているのか。それは、本書の内容をそのまま実行することで組織を劇的に変えることができるからだ。星野氏はこうも語っている。「書かれている内容を一言一句、そのまま実践することだ」。本連載では、星野氏が本書の内容を実践した際のエピソードを3回にわけてお伝えしていく。(初出:2022年7月15日)

星野佳路代表が語る「星野リゾートを激変させた1冊の経営書」【前編】【書籍オンライン編集部セレクション】星のや軽井沢

旅への出発

 1991年、私と弟の2人で父が経営していた軽井沢の旅館を継いだとき、社内には課題が山積していた。

 最も深刻な問題は人材確保だった。勤務時間は不規則、休日も少ない地方の温泉旅館に就職してくれる人は多くなく、募集広告を出しても応募者は数名しかいなかった。

 少しでもプラスになるかもしれないと思い、社名を星野温泉から星野リゾートに変更してみたが、中身は何も変わっていないので、せっかく入社してくれた社員の定着も悪く、問題は解決しなかった。

 社員たちと一生懸命コミュニケーションをとったものの、活気ある楽しい職場にはならず、多くの社員が会社を離れた。そういう組織を経営していた私は、まさに本書に登場するマイケルだったのだ。

 1984年、米国コーネル大学ホテル経営大学院の人材マネジメントの授業で、ちょうどベストセラーになっていた『1分間マネジャー』を読み、すぐにケン・ブランチャード教授のファンになった。

 私が実家を継いで人材確保に悩んでいた頃、教授の新しい書籍『Empowerment Takes More Than A Minute』(この本の旧版)が出版され、私は即座に「エンパワーメントの旅」に出る決意をした。

 その後の星野リゾートの成長は、同書の教えなくしてはありえなかったと断言できる。

 今では星野リゾートの象徴でもある「フラットな組織文化」は、ケン・ブランチャード教授が提唱する未来型の組織そのものだ。

 同書の中に何度も繰り返して出てくるのは、その旅は簡単ではないということ。今までの固定観念を捨て去り、短期的副作用を克服し、失敗を辛抱強く修正していく必要がある。

 当時の私たちにそれができたのは何も失うものがなかったからだ。だから、ケン・ブランチャード教授が言うプロミスランドがあると確信して進むことができた。

旅の体験談

 星野温泉旅館は1914年開業の老舗旅館だが、私たちが経営を始めたとき、建物やサービスなど改善したいことばかりが目についた。

 母屋の2階にある食堂で提供していた和食は、自分が食べて美味しいとは思わなかった。

 調理は板前という職種の人たちが厨房で担当していたが、「美味しくないと思う」とは決して言えない。そんなことを言った途端に、板長は辞めていくことが予想できたからだ。

 その際には、この世界の習慣に従って、調理場のスタッフ全員が辞める、業界用語で言う「総上がり」が起こり、翌日から調理を担当する労働力がなくなって自分が困るのが目に見えていた。

 お客様の近くで働いているスタッフは、顧客が美味しいと思っていないことを一番よくわかっていた。しかし、それは経営者でも言えないのだから、黙って知らないふりをするしかない。

 こんな状態からの活路を求めて、ある日、私は勇気を振り絞って板長に話してみた。「私たちの旅館では、もっと美味しい食事を出したいと思うのですが……」と聞くと、板長は「お客様は美味しいと言っている」と反論した。

 そんなことは決してないと思ったが、確かに味の評価は主観的であり、私も客観的なデータを持って味のレベルを指摘しているわけではなかった。

 そこで情報公開というエンパワーメントへの第1の鍵を使うことを思いついた。

 外部の調査会社に委託して顧客満足度調査を実施し、その結果を全社員に公開した。食事の味だけではなく、フロントサービス、お部屋、そして温泉大浴場まで、すべてを調査範囲として結果を定期的に公開したのだ。

 すると驚いたことに、スタッフに指摘されると感情的になる板長が、顧客に「美味しくない」と言われている結果を見た途端、意地になって改善を始めたのだ。

 当時、星野温泉旅館の社員は、会社に対する忠誠心はなく、誰も利益を高めようとは思っていなかったが、自分自身がサービスを提供しているお客様に満足してほしいという気持ちだけは持っていた。

 それぞれ仕事のスキルに高低はあっても、どの社員も持っているこの気持ちこそ、経営者が信頼し活用すべき能力なのだと私は気づいた。

 その調査結果は、食事の味だけでなく、サービスや清掃状態などさまざまな面で顧客が満足していないことも示していた。

 私たちは数値を少しずつ上げることを目標とし、前回よりも数値が改善したらお互いに褒め合うことにした。『1分間マネジャー』からの学びだ。

 そうすると、社員たちは調査結果の公表を楽しみにするようになった。不思議なもので、これだけで顧客満足度はどんどん上昇し始めたのである。

 サービスの質に対する評価は主観的になりがちだ。料理の味、スタッフの親切さなどは見えにくいし測るのも難しい。

 だから、経営者個人の尺度で判断してしまうことが多くなるが、スタッフはその判断をまったく信用していない。「総支配人はお客様のニーズをわかってないよね」という愚痴につながるケースが多い。

 サービスに対する評価は顧客セグメントによって違う基準があり、年配の女性と20代男性では食事に対する評価基準がそもそも大きく異なっている。

 セグメントごとの数値も含めて公開したことが、サービス評価の客観的基準になっただけでなく、よい議論のベースを社員に与えることになり、その意義は大きかった。

 顧客満足度を少しずつ上げていくことを目標としたが、どうやって上げていくかについては相談されない限り放置した。

 組織全体が第3の鍵であるセルフマネジメント・チームになっていくことを目指したのだ。

 前述した通り、目の前のお客様には満足してほしいという気持ちを社員たちは元々の性質として持っている。

 その力を引き出すことこそがエンパワーメントであると考えた。そうすると仕事が楽しくなってきて、社員の定着率が上がり始めた。

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