2021年6月、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)に続いて、「自然関連財務情報開示タスクフォース」(TNFD)が発足した。このことは、脱炭素に続いて「生物多様性」についても、資本市場や世界的なNGOが、産業界に責任ある行動をいっそう強く求めていくことを示唆している。

 そもそも脱炭素は、気候変動の緩和、生物多様性や生態系の保全のための手段の一つでしかない。その主たる目的となる生物多様性は、南北問題と切っても切れない関係があり、おのずとSDGs/ESGへの取り組みにも関わってくる問題である。

 生物に関わる国際的取り決めというと、絶滅危惧種の国際取引に関するワシントン条約、水鳥の生息地として重要な湿地に関するラムサール条約が知られるところだが、地球全体の問題として国際的に認識されたのは、1993年12月に発効した「生物多様性条約」(CBD)が最初といえる。

 その最初の締約国会議(COP1)は、翌年11月にバハマのナッソーで開催された。以来、2年ごとの開催を続け、締約国は2022年3月現在で196カ国に上る。ちなみに、バイオテック企業や製薬会社の知財に累が及ぶとして、この中にアメリカの名前はない。

 2011年から2020年までは「国連生物多様性の10年」と定められていたが、昨2021年、中国が議長国を務めたCOP15では、2020年以降のグローバルな生物多様性枠組(ポスト2020GBF)の採択を後押しする「昆明宣言」が出された。なお、COP16は今年2022年にトルコで開催される予定であり、ポスト2020GBFの主流化に棹差すことになろう。

 今回インタビューをお願いしたのは、東京工業大学名誉教授の本川達雄氏である。本川氏といえば、ベストセラー『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)を思い浮かべるのではないか。

 発行された1992年は、平成不況、複合不況と呼ばれていた時期である。この本は、生物についてその大きさだけでなく、部分と全体の大きさや重量、生理学的な諸量の関係を研究する「アロメトリー」(相対成長)をテーマにしており、生物学の専門書であるが、サブタイトルの「サイズの生物学」が産業人の問題意識にマッチし、当時の大企業を語るアナロジーとして注目された。

 本川氏には、もう一つビジネスパーソン必読の一冊がある。『生物多様性』(中公新書)だ。生真面目な方は第1章から読まれるかもしれないが、時間に追われている方ならば「終章」から読んでいただきたい。そこには、昨今のSDGs/ESG、脱炭素を考えるうえでの心得が書かれている。

 この『生物多様性』の中で、本川氏は「生物多様性が近年、急速に失われています。仮に現存している種が1900万種とすれば、毎年、1900~1万9000種が絶滅している」、しかし「生物多様性が減少していることは、どうにも実感が得られない」ため、「生物多様性の大切さがわかったと言って、では生物多様性を守るために何か自分で行動を起こせるかというと、なかなかそうはいきません」「また単独で取り組んでも効果が上がらないのです」と述べる。

 そのような難しさを伴う課題ではあるが、TNFDは、2030年までに生物多様性を回復軌道に乗せる「ネイチャーポジティブ」、そのために陸域と海域それぞれの30%を保護・保全するという「30×30」の実現へのコミットメントを政府や産業界に求めていくだろう。実際、脱炭素対策だけでは片翼飛行である。

 今回は、生物多様性の価値を熱っぽく語る環境活動家でもなく、数値や論理など合理・科学主義では説明し切れない生物多様性の内在的価値を尊重し、中道を歩む本川氏に、ビジネスパーソンに向けた生物多様性の講義をお願いした。

脱炭素の目的は
生物多様性と生態系の回復

編集部(以下青文字):地球が危機的な状況にあると、さまざまな形で訴えられています。1992年の地球サミット(リオデジャネイロで開催された国際環境開発会議)で「生物多様性条約」が結ばれましたが、生物の絶滅速度の勢いは加速する一方です。このままでは現存種の半分が今世紀中に絶滅してしまう、という予測もあります。

生物多様性の意味を突き詰めてみよう東京工業大学 名誉教授
本川達雄
TATSUO MOTOKAWA
1971年、東京大学理学部生物学科卒業。同大学助手、琉球大学助教授、デューク大学客員助教授を経て、1991年より2014年まで東京工業大学教授。ウニやヒトデ、ナマコなどの棘皮(きょくひ)動物にのみ見られる、硬さが短時間内に変わる「キャッチ結合組織」の研究者。また、シンガーソングライターでもあり「歌う生物学者」としても知られる。主要な著書に、『サンゴ礁の生物たち』(中公新書、1985年)、『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書、1992年)、『歌う生物学』(講談社、1993年。のち『ナマケモノの不思議な生きる術』〈講談社プラスアルファ文庫、1998年〉に改題)、『時間』(NHKライブラリー、1996年。のち『「長生き」が地球を滅ぼす』〈阪急コミュニケーションズ、2006年。のち文芸社文庫〉)、『生きものは円柱形』(NHKライブラリー、1998年。のちNHK出版新書、2017年)、『ヒトデ学』(東海大学出版会、2001年)、『歌う生物学 必修編』(阪急コミュニケーションズ、2002年)、『おまけの人生』(阪急コミュニケーションズ、2005年。のち文芸社文庫)、『サンゴとサンゴ礁のはなし』(中公新書、2008年)、『世界平和はナマコとともに』(阪急コミュニケーションズ、2009年)、『ウニ学』(東海大学出版会、2009年)、『生物学的文明論』(新潮新書、2011年)、『生物多様性』(中公新書、2015年)、『人間にとって寿命とはなにか』(角川新書、2016年)、『ウニはすごいバッタもすごい』(中公新書、2017年)、『生きものとは何か』(ちくまプリマー新書、2019年)がある。そのほか、絵本や生物学の参考書などの著作がある。

本川(以下略):現在、地球上には1900万種の生物が存在しているといわれていますが、その0.01~0.1%、すなわち1900~1万9000種が毎年消失していると推測されています。WWF(世界自然保護基金)が隔年で発行しているLiving Planet Report(『生きている地球レポート』)では、地球環境への負荷について分析していますが、近代以降の絶滅種の7割は、人間の活動によって生息地が破壊されたことが原因です。

 衣食住、エネルギー、医薬品など、人間が日常的に使っているもののほとんどが生物由来です。石油や石炭はもちろん、鉄鉱石ですら、その生成には生物が関与しています。

 種が多様であると生態系は豊かで安定した存在となり、人間を含めたすべての生物が生命を維持するための「基盤」となり、生存に必要な資源や便益を「供給」し、森林に治山治水機能があるように、自然災害の影響を緩和し「調整」してくれています。つまり生物の生活している生態系は人間をはじめとした生物全体に、さまざまな「生態系サービス」を提供しているのです。

 ところが、生物多様性が失われているという実感はなかなか得にくいものです。生物多様性が最も高い生態系は熱帯雨林とサンゴ礁であり、どちらも熱帯、亜熱帯域にあるからです。そして、最も生物多様性のお世話になっていると実感できるのは食物ですが、日常利用しているのは数百種類しかないのです。ですから、もしも現存種が半減しても、すぐさま生活に支障が生じることはないと思いがちなんですね。実際にはそれほどの絶滅が起きれば、生態系が崩壊して、大変な事態になるのは確実なのですが、では具体的に、どれほど生物多様性が減ると、どのようなことが起きるのか、具体的に示すことはできていません。こうしたことから、生物多様性と生態系サービスの問題は脇に置かれやすい。