世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。発売3年たってもロングセラーとなっている。
◎宮部みゆき氏(小説家)が「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります
◎池谷裕二氏(脳研究者・東京大学教授)が「初心者でも知の大都市で路頭に迷わないよう、周到にデザインされ、読者を思索の快楽へと誘う。世界でも選ばれた人にしか書けない稀有な本
◎なかにし礼氏(直木賞作家・作詞家)が「読み終わったら、西洋と東洋の哲学と宗教の大河を怒濤とともに下ったような快い疲労感が残る。世界に初めて登場した名著である
◎大手書店員が「百年残る王道の一冊
◎日経新聞リーダー本棚で東原敏昭氏(日立製作所会長)が「最近、何か起きたときに必ずひもとく一冊」と評した究極の一冊
だがこの本、A5判ハードカバー、468ページ、2400円+税という近年稀に見るスケールの本で、巷では「鈍器本」といわれている。“現代の知の巨人”に、本書を抜粋しながら、哲学と宗教のツボについて語ってもらおう。

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密教はあなただけに密かに教える仏教

【出口学長・日本人が最も苦手とする哲学と宗教特別講義】<br />なぜ、「満洲」と呼ばれるようになったのか?出口治明(でぐち・はるあき)
立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県美杉村生まれ。京都大学法学部を卒業後、1972年、日本生命保険相互会社入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年に退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年4月、生命保険業免許取得に伴いライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年、上場。社長、会長を10年務めた後、2018年より現職。訪れた世界の都市は1200以上、読んだ本は1万冊超。歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では世界史の講義を受け持った。
おもな著書に『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『仕事に効く教養としての「世界史」I・II』(祥伝社)、『全世界史(上)(下)』『「働き方」の教科書』(以上、新潮社)、『人生を面白くする 本物の教養』(幻冬舎新書)、『人類5000年史I・II』(ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義 古代篇、中世篇』(文藝春秋)など多数。

 632年、ムハンマドが世を去った頃に、インドでは密教が盛んになります。

 密教は、インドの民間の呪術的な祭典やヒンドゥー教を模倣しながら誕生しました。

 仏教の変遷を振り返ってみると、最初に自らの悟りを求める原始仏教が誕生し、上座部(じょうざぶ)と大衆部(だいしゅぶ)に分裂した後、それを批判する形で多くの人々を救う乗物になるのだという考えから、大乗仏教が創始されました。

 わかりやすく、信じやすく、ということでヒンドゥー教に多くのことを学んだのです。

 そして、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けると説いたのです。

 しかしそれは結局、ヒンドゥー教のシヴァ信仰やヴィシュヌ信仰のエピゴーネン(亜流)にすぎません。

 そこに大乗仏教の限界があり、インドでは伸び悩みます。

 ここで仏教は苦境を打開するために考えました。

 そして先祖返りを始めます。

 もともと仏教の教えは下層民対象の宗教ではなかった。

 都市部の上流階級に信者が多かった。

 その原点に戻ろうとしたわけです。

 そして大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)(大日経〈だいにちきょう〉)という宇宙を統(すべ)る大日如来(毘盧遮那仏〈びるしゃなぶつ〉)を賛美した経典や、秘密儀則を詳述した金剛頂経を創作しました。

 この秘密儀則とは、呪文を唱えながらさまざまなおまじないの行為を実践することによって、何かを祈り実現させようとするものです。

 密教では遠大な理想を説く大日経の教えと、金剛頂経の世俗な願いを実現させる呪術的な儀式を、お金持ちを中心に布教しました。

 「あなたは立派な人ですから、そっとあなただけに尊い教えをお授けします。秘密のお祈りをいたしましょう」

 そういう布教方法で、密教は上流階級から浸透していきました。なお、密教に対して他の仏教を顕教と呼んでいます。

 密教を完成させた人々は、強い情熱を持って布教しようとしました。

 インドだけではなく、中央アジアから中国に布教しようとします。

 しかし7世紀の頃、中央アジアはすでにイスラーム教の世界になっていたのです。

 その世界に出かけて行って、私たちは新しい密教の教えを布教したい、などと説明しても入国は許されないでしょうし、最悪の場合、迫害されたかもしれません。

 唯一神のアッラーフの世界なのですから。中国への海の道は開かれていましたが。

 布教者たちの中には、ヒマラヤ山脈を越える難路を選んだグループもありました。

 そしてチベットに至った彼らは、その地で大乗仏教の僧たちと対立します。

 そこで両者はチベットで、宗論を戦わせ、お互いの優劣を競うことになりました(サムイェー寺の宗論。794年)。

 当時のチベットを支配していたのはトゥプト(吐蕃)という王朝です。

 その地にいた大乗仏教(禅)の僧は、トゥプトが西域の敦煌を占領したときにチベットへ招聘した中国人の僧です。

 新しい教えを布教したいという情熱の力で、インド僧は中国僧を圧倒してしまい、教義の論争よりも意欲の点で密教側が勝利します。

 このときからチベット仏教は密教の世界になりました。