日本企業に対する投資家の企業価値評価が低い。主因は説明不足にある。外国企業との差を端的に示すのがPBR(株価純資産倍率)。会計上の簿価に対してどれだけ付加価値を創出しているか、市場が判断する指標だ。人材など非財務資本の活用と同時に、それをきちんと伝えて市場に評価されることが求められる。今、注目のESGはその象徴といえる。ESGと企業価値をつなぐ方法論「柳モデル」を製薬大手のエーザイでCFOとして確立した柳良平氏が、その理論と実践法を全10回の連載で提示していく。連載第8回は、「インパクト加重会計イニシアティブ」(IWAI)の日本第1号としての従業員インパクト会計について紹介する。

「インパクト加重会計イニシアティブ」(IWAI)の日本第1号としての従業員インパクト会計の開示柳良平(やなぎ・りょうへい)京都大学博士(経済学)。米国公認管理会計士、米国公認財務管理士。公職として東証上場制度整備懇談会委員、日本生産本部「経営アカデミー」経営財務コース委員長等を務める。銀行支店長、メーカーIR・財務部長、UBS証券エグゼクティブディレクター、エーザイ専務執行役CFO等を経て現職。早稲田大学会計研究科客員教授として10年以上大学院で教壇に立つ。2017年度早稲田大学Teaching Award総長賞受賞。2022年9月より早稲田大学「会計ESG講座」の共同責任者を務める。Institutional Investor誌の2022年機関投資家投票でヘルスケアセクターのthe Best CFO第1位(5回目)に選出される。主著に、“Corporate Governance and Value Creation in Japan”(Springer)、『ROE経営と見えない価値』(編著)、『CFOポリシー第二版 財務・非財務戦略による価値創造』『ROE革命の財務戦略』『企業価値を高める管理会計の改善マニュアル』(いずれも中央経済社)、『企業価値最大化の財務戦略』『日本型脱予算経営』(いずれも同友館)、『ROEを超える企業価値創造』(共著:日本経済新聞出版社)等。

柳モデルからのESG会計の展開

 柳 (2021a) は、「柳モデル」に基づいて、ESGのPBRへの遅延浸透効果を回帰分析で測定して、その感応度分析を行い、エーザイおよびTOPIX100, 500を対象として、人的資本・知的資本への投資である人件費・研究開発費が5~10年かけて、事後的・長期的に企業価値向上に正の影響を及ぼす関係があることを示唆した。

 そして、これを根拠として、筆者はエーザイCFO(当時)として、ESG会計の簡便法で、人件費・研究開発費を足し戻したESGの営業利益である「ESG EBIT」を用いて「ESG会計の価値提案」(柳 2021b)を行い、「エーザイの統合報告書2020」「価値創造レポート2021」で開示した。

 エーザイのESG EBITでは、「人件費は費用ではなく投資である」として、100%を価値評価しているが、「全ての人件費が価値創造的ではなく、良い人件費、悪い人件費もあり、マイナス項目も斟酌(しんしゃく)すべきだ」という視点も含めて、追加的なESG会計を模索してきた。

 ESG会計の先行事例としては、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)のジョージ・セラフェイム教授が主導するインパクト加重会計イニシアティブ(IWAI:2022年にはIFVIへと発展)がある。

 セラフェイム(2021)によれば、IWAIはインパクトの測定(Impact Measurement)として、ESGがもたらすさまざまな社会的インパクトを勘案して、従来の会計情報(GAAP)に調整を加える簡便法を提唱している。

 小平(2021)は、「社会的に最低限必要で公正と考えられる水準を上回る部分の給与は、従業員の生活水準の改善や満足度の向上に結び付きやすい。したがって、費用ではなく社会的な価値の創造と考えるべきではないか」とセラフェイム教授の主張を紹介している。

 そして、その小平(2021)が日本経済新聞で記述したように、筆者はHBSの認める日本第1号のIWAIのケースとして、セラフェイム教授のチームと共同研究を行い、「エーザイの従業員インパクト会計」(柳 2021c)を算出。エーザイの価値創造レポート2021で開示して、世界の投資家と議論してきたので後述する。

「インパクト投資の父」とも呼ばれるロナルド・コーエン卿は、著書(コーエン 2021)の中で、「測定できないものを管理することはできない、というのは経営の基本原則だ。正確なデータ、信頼できる測定が真の改革には不可欠だ」として、「だからこそ、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)が生み出したインパクト加重会計イニシアチブ(IWAI)は極めて重要なのだ。インパクトの貨幣換算によって、ポートフォリオ理論は次のステージに持ち上げられる。リスク・リターンの最適化と同様に、リスク・リターン・インパクトの最適化ができるようになるだろう」と主張している。

 ちなみに、インパクト投資とは、「金銭的なリターンと並行して、ポジティブで測定可能な社会的・環境的インパクトを生み出すことを意図して行われる投資」(グローバル・インパクト・インベスティング・ネットワーク〈GIIN〉の定める定義)である。

 世界的に、株主資本主義からステークホルダー資本主義(あるいはインパクト資本主義)へと変遷する中で、ESGやインパクトの定量化と開示の重要性が高まっている。

 日本でも、2021年に誕生した岸田内閣は、「新しい資本主義実現会議」を発足させたが、その中で委員の一人である渋澤健氏により、次節で述べる「柳モデルとエーザイの従業員インパクト会計」が参考事例として紹介された(内閣官房 2021)。

 一方、グローバルに俯瞰(ふかん)すると、2021年7月、英国政府はG7議長国として「インパクトタスクフォース2021」を立ち上げた。

 筆者は、インパクトの定量化、報告、会計に関する議論(Workstream A)に唯一の日本人として参加したが、2021年12月の英国政府への最終報告書では、Impact Monetizationの先行事例として「エーザイの従業員インパクト会計」が採択されている(G7 Impact Taskforce 2021)。