失敗しても落ち込みすぎないメンタルが強い人の共通点
そんな風に悩んでいたとき、ふと、学生時代、当時の彼氏とディズニーランドに行った記憶が蘇ってきた。彼は底抜けにポジティブでメンタルが信じられないほど強く(あまりにキラキラしすぎていて自分が惨めになり結局別れてしまったのだが)、おそらく私の知る人間のなかで一番、幸せそうに見える人だった。
せっかくのディズニーランドだというのに、あいにくのザーザーぶりの雨で、私たちは、傘をさしながら12月のパーク内を、かじかんで感覚のない足でむりやり歩いて、ぶるぶると震えながらピザを食べた。
お目当ては話題になったプロジェクションマッピングのショーで、運良くチケットが取れた私たちは、なんとか傘をさし、濡れないように席に座って、ショーがはじまるのを待っていた。
すると、キャストの人が、「もうまもなく開演です、傘をお持ちの方は傘を閉じてください」とアナウンスをした。
おそらくうしろの人が見えないからということなのだろうが、まさか真冬に雨に打たれてショーを見る羽目になるとは思ってもいなかった私は、思わず「はあ、ディズニーで雨とか最悪だね。別の日にすればよかったかな」と愚痴を呟いてしまった。
すると、彼は「そうだね、でも、雨の日のプロジェクションマッピング、最高なんだって。雨に光が反射してきらきらして、すごく綺麗なんだって、ニュースで見たよ」と笑顔で私に言った。
私は、震えながらも、彼が自信満々に言うので、そうか、と思って期待して待っていた。
すると、どうだ。ショーは彼が言った通り、本当に綺麗だった。
雨のつぶひとつひとつに、光が反射し、小さな宝石たちが空から降ってくるみたいに見えた。シンデレラ城全部が光のベールをまとって輝き、投影するレーザーすらも、水滴一つ一つに反射するおかげで、点描画のドットのようだった。
「すごいね、本当にきれい!」と私が言うと、彼は「うん、やっぱり、今日来れて、雨の日に来れて、よかったね。もし次に来るなら、晴れの日を選ぶだろうしさ」と、自然に口角をあげて、嬉しそうに言った。
仕事で悩んでいたとき、そんな、彼の幸せそうな顔を思い出した。そして私の中に、一つの仮説が浮かんだ。
彼は終始、そういう人なのだ。いつも不安に押しつぶされる私と、どんな苦境にあっても自分を信じられる彼の違いは、その思考手順だったんじゃないだろうか。
彼はとにかくメンタルが強く、仕事人としても優秀で、多くの人に慕われていた。彼の口から「ああすればよかった」「こうしておけばよかった」なんて言葉が出てきたのはほとんど聞いたことがなく、「ああしてよかった」「こうしてよかった」という、プラスの言葉ばかりを口にした。
あるいは、「正しい選択」という言葉の定義について、私はきちんと考え直すべきなのかもしれない、と私は思った。
きっと、メンタルが強そうに見える人、幸せを感じやすい人というのは、「正しい選択ができた人」ではなくて、「自分がした選択が正しかった、と思える理由をつくるのがうまい人」なのだ。
「あのときああすればよかったのに」
「こうすればもっとうまくいったのに」
そんな風に、自分のした選択がいかに失敗だったかを後悔するんじゃなくて、自分のした決断が正解だったと、いったん、決めてしまうこと。正解だった理由を見つけること。それがとてもうまいのだ。
私たちはいつも、選択をし続けている。他人が選択をするのを、横で見ている。
そして選択しつつも、不安に思う。いつも自信満々に選択をしている人なんていない。
みんな「本当に自分が選んだ道は正しかったのかな」「あのときあっちを選んでおいた方がよかったんじゃないか」と考えながら、でも、もう巻き戻しなんかできないなら、頑張るしかない。
だからこそ他人のことが気になる。少し前まで自分と似たような環境にいて、自分とは別の選択をした人のことはもっと気になる。他人の方が幸せに見えると、自分が選んだ道が間違いだったんじゃないかと思えてくるからだ。
あるいは、人が他人を妬んだり、蹴落とそうとしたり、悪口を言ったりするのは、その人の選択を「間違い」だったことにすることで、自分の選択肢を「正しい」ことにしたいからなのかもしれない。
「死ぬ」ではなく「生きる」というカードを選び続ける限り、私たちは常に何かを選び続けなければならない。
なら、重要なのは何を選ぶかではなくて、いかに、自分が選んだものが、自分にとって正解だったと思えるように努力できるか、なんじゃないか──そんな仮説を立ててみたのだ。
選択肢が多すぎると「無力感」を抱いてしまう「選択のパラドックス」とは
「選択のパラドックス」という言葉を聞いたことがあるだろうか。アメリカの心理学者バリー・シュワルツが提唱したもので、私はつい最近、彼が登壇したTEDの動画を知った。「多すぎる選択肢が生む感情」について、とても面白いことを話していた。
本来、選択肢の多さや自由度の高さは、素晴らしいことだと考えられている。たしかに、それは紛れもない事実だ。しかし、その一方で、矛盾しているようだけれど、人間はあまりにも多くの選択肢を前にすると、「開放感」ではなく「無力感」を抱き、どれか一つを選ぶことが困難になるのだとシュワルツは言った(「選択肢が多いことの良い側面はみんな知っていると思う。だから僕は悪い側面についても語ろうと思う」と彼はワンクッション置いてから話した)。
一部を要約すると、こういうことらしかった。私たちはどうしても、「これだけたくさんの選択肢があるのだから、どれか一つくらいは自分にぴったりの完璧なものがあるだろう」と期待してしまう。だから、「選択肢が多過ぎて選べない」という無力感に打ち勝って決断をしたあとも、大量の選択肢を目の前にしたときの「どんなものでも選べる!」という記憶・期待感が蘇り、「あっちの方がよかったかも」「あっちを選んでたらどうなってたかな」とつい想像を膨らませてしまう。せっかくいい決断をしたとしても、その後悔が、下した決断の満足度から差し引かれていくのだそうだ。
さらに、多くの人は、「完璧なものを選べなかった」──間違った道を選んだことを、すべて自分の責任だと認識してしまう、と彼は語った。本来は、「自分に100%ぴったりの完璧な選択肢がないこと」の責任は世界と自分、双方にあるはずだ。その人に合う仕事を提供できなかった世界。そして、その仕事に適応できなかった自分。どちらにも責任がある。どちらが一方的に悪いということはない。なのに、多くの人は「全部自分のせいだ」と考えてしまうのだという。(もちろんそれだけが要因ではないが)アメリカで爆発的にうつ病の人が増えた原因の一つはこれではないかと僕は考えている、とシュワルツは言った。
「後悔の無限ループ」から抜け出すには
この「選択のパラドックス」という概念を知ったとき、正直、私は心底ほっとした。なんだ、私だけじゃないのかと、これまでのある種の自虐感情が解けていくような気持ちになった。
私自身の経験もふまえて考えてみると、多様性と選択肢に溢れた2022年を生きる私たちが、どんな選択肢を取ったとしても多かれ少なかれ後悔してしまうのは、ある程度仕方のないことらしい。
ただ一つ思うのは、そういう自分の傾向を忘れないよう、メタ的に認識しておくべきなんじゃないか、ということだ。
後悔や期待といった感情に、私たちは簡単に振り回されてしまう。「あっちにしとけばよかった」と思ったときの記憶のインパクトが強ければ強いほど、また次の、別の選択を迫られたときも、過去に「ダメな選択をして後悔した」という記憶が蘇る。再び無力感に苛まれ、また選ぶのが困難になる。後悔の無限ループだ。一度の後悔が次の「後悔するかも。後悔したくない」という不安を呼ぶ。「一度後悔したんだから次は絶対に完璧なものを選ぼう」と期待がますます高くなり、視界を曇らせる。
選んだら選んだでほんのわずかな「完璧じゃなかったところ」にばかり注目し始め、「ほらやっぱり後悔した」とまた次の後悔を生む。雪だるま式に後悔が大きくなっていくのだ。
その間、後悔の記憶が薄い人は、「えーい、とりあえずこれを選んで、ダメだったらあとから考えよう」と、どんどん先に進んでいく。決断が早ければ早いほど、当然ながら行動量も多くなる。もちろんいつもいつも成功できるはずもなく、失敗だってするだろうが、行動の全体量は多いから、結果的に見れば、するすると結果を出しているように見えるのかもしれない。
シュワルツの話にも出てきたけれど、自分に完璧にハマる選択肢というものは存在しない。どの選択肢にもいいところがあり、悪いところがある。「絶対にどれか一つは」というのは、あまりにたくさんの選択肢がありすぎることによって生まれてしまった幻想だ。
だったら、なぜいつもいつも正解の道を選んでいるように見える人と、そうでない人がいるのか?
それは、「とりあえず」の決断力ではないかと、私は思っている。「本当に」正解なのかどうかというのは関係なくて、「とりあえず、この選択肢を正解ということにする」と、決められるかどうか。
決断したあとでも「あんなにたくさんの選択肢があったのに」というがっかり感が蘇るのは人間の心理特性として避けられないのなら、後悔で差し引かれた満足度をまた上げるべく、「選んでよかった理由」を増やしていくしか方法はない。