気軽に自分の思いを共有・発信しやすいというメリットがある一方、見たくもない他人の華やかな人生が無遠慮に流れ込んでくる現代のSNSの仕組みに、息苦しさを覚えている人も多いはずだ。日本だけに限らず海外でも、SNSで着飾った自分を表現することに明け暮れ、「自分の居場所を見つけなければ」というプレッシャーから病んでしまう人が増殖しているという。「承認欲求とどう向き合うか」といった諸問題は、現代病の一つとも言えるのかもしれない。
そんな、自分自身の承認欲求に振り回され、不安や劣等感から逃れられないという人にぜひ読んでもらいたいのが、エッセイ『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)だ。著者の川代紗生さんは、本書で承認欲求との8年に及ぶ闘いを、12万字に渡って綴っている。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察した当エッセイの発売を記念し、今回は、未収録エッセイの一部を抜粋・編集して紹介する。
「理不尽の種」が植え付けられた最初のタイミング
「この世の中は、理不尽だ。大人は何もわかってない!」
そう思うようになったのは、いつからだっただろう。
どっかのフランス映画じゃないけれど、「どうせ大人はわかってくれないさ」という感情は、幼い頃から抱き続けていた気がする。「大人」と呼ばれるような年齢になった、今でもそうだ。私の心の中には「わかってもらえなかった子ども時代の自分」が取り残されたままで、「わかってくれない大人」への怒りと、そして同時に、諦めが同居している。「足掻いても意味がない」という、虚しく、やるせない感情だ。
理不尽なことで怒る、ちゃんと事実を確認していないのに決めつける、クラスの人気者がやるいたずらは「仕方ないなー」で済まされるのに、模範生徒が同じいたずらをしたら「なんてことするんだ!」と怒られる。正しい行いをしようとすればするほど、ルールを守ろうとすればするほど一度のミスが致命傷になって、怒られる確率が上がる。だったら最初から問題だらけのいたずらっ子になっておいた方が得だったじゃん、なんて、あとから後悔してももう遅い。今からキャラクター変更をするには、ゲームは進みすぎてしまっている。
世の中は不公平で、理不尽で、思い通りにいかないものなんだ。
きっかけは、何だったろう。きっと誰の心の中にも、「理不尽の種」が植え付けられた最初のタイミングがあるはずだ。私にとっては、それは教師からの一言だった。
ルールへの執着心が招いたトラブル
小学生の頃、行事の一環で、高原の宿泊施設に泊まったことがあった。あまりはっきりとは覚えていないけれど、合宿所の貸切という形ではなく、一般客も滞在する大規模な旅館だったと思う。
旅のしおりには、細かいルールが記載されていた。分単位のスケジュール。「ハンカチ」「ちりがみ」「レジャーシート」など、持ち物のチェックシート。「一般のお客さんにあいさつしましょう」「〇〇小学校の代表としての意識を持ちましょう」などの心構えまで、ありとあらゆるルールが記載されていた。
その細かいルールの中で、先生が何よりも強調していたのが、「5分前行動」だった。
5分前行動というのは、すべての予定の5分前を想定して動きましょう、というルールのことである。
たとえば、「夕食:6時(1階 つばきの間)」としおりに書いてあったら、5時55分には席に着席しているように常に先を読んで動きましょう、と先生は念を押した。
「ここには、みなさん以外のお客さんもたくさんいます。みなさんは〇〇小学校の生徒という看板を背負っているわけですから、くれぐれも迷惑をかけないようにしてくださいね。では、一旦部屋に荷物を置きに行きましょう。次は、午後3時にロビー集合です。さて、注意するべきことは?」
「ごふんまえこうどう!!!」
「はい、その通り。ということは、何時に集まればいいのかな?」
「にじごじゅうごふん!!!」
「はい、そうですね。それでは、楽しい時間にしましょう!」
という具合である。
学年の腕白坊主たちは5分前行動なんて、先生から言われたその瞬間には忘れていただろうと思う。けれど大人しく、小心者だった私は、クソ真面目に「5分前行動!!」と濃い筆圧でしおりに書き込み、絶対に何があっても遅刻などするものかと、幼心にかたく決意した。
楽しくみんなと遊んでいても、私はとにかく5分前行動を守り続けた。「ごふんまえこうどう、ごふんまえこうどう」とまるで呪いにかけられたかのようにつぶやいて、本当に5分前には次のレクリエーションに取り組めるように行動していた。先生に言われたことは、絶対だからだ。
が、問題が起きたのは、そのあとである。
夕方の5時からお風呂の時間、としおりに書いてあった。
5分前行動を意識していた私は同じ班の子達とともに、大浴場へ向かった。当然のごとく、4時55分だ。大浴場のドアを開けると、予想に反し、おばあさんたちの集団がゆったりと湯船に浸かっていた。
「あれ? 私たちだけで入るって書いてあったのに」と、一瞬、疑問が頭をよぎったが、特に深く考えることもなく、そのまま私たちはお風呂に入ることにした。おばあさんたちは小学生だけで体を洗ったりしている私たちを微笑ましそうに見ていた。
特に問題もなく、普通に体を洗い、普通に湯船に浸かった。気がつくとおばあさんたちはいなくなっていた。
が、しかし、はー、さっぱりしたとほかほかの体で大浴場を出たところで待っていたのは、鬼の形相で仁王立ちする学年主任の先生だった。