「人の目を気にせず自分らしく生きたいのに、『認められたい』という気持ちを捨てられない」と葛藤し続け、「承認欲求」から解放される方法を研究し続けてきた──そう語るのは、エッセイ『私の居場所が見つからない。』の著者・川代紗生氏だ。8年かけて綴ってきた彼女のブログは、同じ生きづらさを抱える読者から大きな反響を呼び、10万PV超えのバズを連発。その葛藤の記録をまとめた本書は、「一番言ってほしかったことがたくさん書かれていた」「赤裸々な感情に揺さぶられ、思わず泣いてしまった」など、共感の声が寄せられている。
そんな「生きづらさをエネルギーに変えるためのヒント」が詰まった1冊。今回は、疲れた心に寄り添う本書の発売を記念し、未収録エッセイの一部を抜粋・編集して紹介する。

「本当にこの道を選んで正解だったのかな」と思うときはPhoto: Adobe Stock

「何にでもなれる」社会のなかで何かを選ぶことすらできない自分の無力感

 自分の選択は正しかったのかな、と考えることが、しばしばある。

 たとえば、社会人になりたてのとき、結婚するとき、転職するとき、逆に、転職せずに今の場所でステップアップすることを決めたとき──なんかは、とくにそうだ。

「人生は選択の連続である」なんて有名な格言もあるように、私たち人間は常に選択を迫られている。生きている限り、何かを選び続けなければならない。

 私たちは、朝、目が覚めたその瞬間から選択をする。目を開けるかどうか。このまま起きて生活をはじめるのか、それとも二度寝するのか。

 朝ごはんは何を食べるのか、今日はどんなメイクでいくのか、アイシャドウは何色にするか、髪型はストレートにするか巻いていくか、何時に家を出て、何時の電車に乗って会社に行くのか。

 残業するのか、しないのか。誰に挨拶して帰るのか。夕食は外食か、買って帰るか、それとも残り物で料理するか?

 お風呂には何の入浴剤を入れる? 寝る前にパソコンを開く? メールを返してから寝るか、それとももう寝ていたことにして、明日の朝返すのか?

 起きてから眠るまで、いつも何かを選び続ける。それが私たちの生活だ。

 選択にもいろいろある。何を食べようか、何を着ようかという小さな選択もあるし、どの会社に入ろうかなどという、人生の岐路になるとても大きな選択もある。

 就職活動のとき、私はいままでにないくらい思い悩んだ。もともと、私は重大な選択をするときは、秒速で決断できる性格だった。いつも直感的に「コレ!」と思ったらほとんど悩まず、即断即決で行動できた。

 ただ、大人になるにつれ、どんどん「何かを選ぶ」ことが怖くなってしまった。新卒で入社する会社を決めたときなんかは、とくにひどかった。世の中には無限に会社があるし、いろいろなビジネスやサービスがある。だから自己分析も悩む。そもそも自己分析したところで、どんどん「自分っていったいなに? 私ってなに? なにがしたいの? なにが好きなの?」と迷走して、結局面接官が求めていないような過去のトラウマにまで思考がとっ散らかってしまったりするばかりだった。

 だいいち、間に合わせの自己分析で仮初めの自分像を作り上げたところで、本当にやりたいことが見つかるわけもなかった。たとえ自己分析して自分のやりたいことや好きなことがわかったとしても、さらに今度は好きなことを仕事にするか否かという選択肢もあらわれる。

 好きなことこそ仕事にせよと言う人もいるし、向いていることと好きなことは違うから、履き違えるなと言う人もいる。

 好きなことなんて趣味でやってればいいんだから、とりあえず安定していてきちんと休みも取れてお金ももらえるホワイト企業に入りなさいと主張する人もいるし、若いうちの苦労は買ってでもしろ、自分を鍛えろ、だから激務の会社に入れというスパルタ式の努力論を語る人もいる。

 そもそも会社に入らなくたって生活はできる、若いうちにこそ起業せよと言う楽天家の意見も、まず3年は会社での経験をつまないと社会人としてやっていけないぞとというヴィンテージな意見も、偏りはあるにせよ、筋は通っているように見えた。

 あとから転職しやすいように、潰しの効くコンサル業界に入っておけというアドバイスもあれば、ひとつこれと決めたものを貫き通すのが仕事であって、はじめから転職するつもりで仕事なんか選ぶなという論もあって。

 もう、じゃあ何を選べば正解なんだよ! と混乱して、頼みの自分の直感も全然働いてくれないし、何を選べばいいのかてんでわからない。

選べない苦しさ「選択的不自由感」

 ネットを開けば働き方について、ビジネスについて大人があれこれ語っていた。今の日本の就活の仕組みは悪だと主張する記事に、うんうんそうだそうだ、と当時の私は深く頷いた。こんなに私が苦しいのは今の就活システムのせいだよな! と安心したかと思えば、今度は「自分がうまくいかないのを就活の慣習のせいにしているようなやつは仕事に限らず何をやってもダメだ」という別の記事も見つかったりして、ますます混乱する。どれももっともらしくきこえてしまう。

 爆発しそうだ。いろんな人がいろんなことを言う。世界は広い。いろんな人が、いろんな意見を持っていて、そして、発信する。今は誰でも発信できる時代で、そして誰でもそれを知る権利があった。

 それがむしろ、もっともっと、選べない苦しさを助長する。自由というのは、幸せだけれど、難しいなと思う。苦しい。選ぶというのは、苦しい。選べる環境にいること自体が幸せなのだ、という紛れもない事実を頭では理解できているのに、その恵まれた環境ですらきちんと責任を果たせない自分が、余計にもどかしい。

 就活生だった当時の私は、わからなかった。どの決断が正しいのか。何を選べば、「あなたは正しい」と言ってもらえるのか、自分で正しかったと思えるのか。

 いろいろな情報が頭の中で飽和していた。話を聞きに行った全ての会社にピンときたし、全ての会社にピンとこなかった。全然決められないから手当たり次第、面接に行き、そして結局は「なんとなく」で入社を決めた。けれど、社会人として働き始めたって、この会社に入った選択が本当に正しかったのか、自信が持てなかった。

 旧友や会社同期の仲間が楽しそうに働いていると、ひどく不安になった。隣の芝生を羨んでいるだけだと頭ではわかっていても。同じ環境にいるのに、「自分よりもずっとその環境に適合できている人」がいるという現実に対し、焦りが止まらなかった。すごいなあ、私ももっと頑張らなきゃと思う一方で、どこか、自分だけ間違えて別の星に生まれてしまったような違和感が心によぎった。

 私、ここで、必要とされてるのかな。
 私は本当に、この会社に入ってよかったのかな。
 もしかしたら、もう少し就活してたら、もっともっとちゃんと考えてたら、違う未来があったんじゃないかな。
 あのとき、あっちを選んでおいた方が、よかったんじゃないかな。
 私、本当に、このままで、いいのかな。

 考えれば考えるほど、不安な気持ちが、現れては消えて。

 そのたびに、大丈夫、自分の選択は間違ってなかった、と言い聞かせる。その繰り返し。