写真:京セラの創業者、稲盛和夫名誉会長京セラの創業者、稲盛和夫名誉会長 Photo:Bloomberg/gettyimages

京セラの創業者、稲盛和夫名誉会長が2022年8月24日に亡くなった。KDDIの創業にも携わり、会長として再建を引き受けた日本航空を3年足らずで再上場させた「経営の神様」は、実はサッカー界にも大きな足跡を残している。京都サンガF.C.の会長および名誉会長を務めた稲盛氏が、文武両道を世界レベルで極めたアスリートの育成を目指して発足に尽力した、他のJクラブとは明らかに一線を画す「スカラーアスリートプロジェクト」の全容を追った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

稲盛和夫が作った選手育成制度は
“サッカーで大成しない場合”も考慮

 東京ヴェルディとの天皇杯準々決勝のキックオフを直前に控えたミーティング。京都サンガF.C.(以下、京都)を率いる曹貴裁(チョウ・キジェ)監督は、19年も前の映像をあえて選手たちに見せた。

 時は2003年の元日。舞台は旧・国立競技場。鹿島アントラーズから2-1の逆転勝利をもぎ取った京都が、クラブ創設以来の初タイトルを獲得した天皇杯決勝の映像だった。

「その後のサンガが必ずしもハッピーな年ばかりではなかった、という話を選手たちにしました。準々決勝に臨むにあたってサンガの歴史を思い出し、ファイナリストになるために、全員がそれぞれの力をしっかり出していこうと選手たちを送り出しました」

 映像を見せた理由を説明した曹監督は、さらにこんな言葉もつけ加えている。

「あの時は稲盛名誉会長も国立競技場に駆けつけて、とても喜んでおられたとも聞きました」

 京都の生みの親として知られる稲盛氏は、天皇杯を制した直後の国立競技場のピッチで、感謝の思いを込められながら選手たちに胴上げされている。京都が産声を上げた94年1月。京セラをメインとする京都府内の企業が出資して、設立された運営会社の会長に就任したのが稲盛氏だった。

 クラブの運営にも尽力した稲盛氏は、京都の公式戦だけでなく練習場にもよく足を運んだ。Jクラブの誕生を願う市民の署名活動が京都の誕生につながっただけに、運営会社のトップを引き受けた稲盛氏は「市民の熱意を思い、地元企業として貢献することがあるべき姿と考えた」と語っていた。

 京都が次にタイトルに近づいた12年の元日。残念ながら決勝でFC東京に2-4で敗れたものの、J2リーグで戦っていたチームを2度目の天皇杯ファイナリストへと導いた原動力は、稲盛氏が作り上げた特別なプロジェクトで育まれた若い力だった。

 例えば横浜F・マリノスを4-2で撃破した準決勝。延長戦に入って決勝点を挙げたFW久保裕也、ダメ押し点を決めたMF駒井善成には共通点があった。ともに京都が06年からスタートさせた「スカラーアスリートプロジェクト(SAP)」で心技体を磨いたホープだったのだ。

 一般にはあまり聞き慣れないSAPとは何なのか。京都の公式ウェブサイトは「京都から日本、そして世界へ。真の文武両道を兼ね備えた世界的トップアスリートを育成する」と説明している。きっかけは京都の監督を務めた、元日本代表FW柱谷幸一氏の提言だった。

 初めてJリーグに参入した96年から、京都は毎年のように他チームで活躍した主力選手を補強してきた。その中には55歳の今も現役でプレーするFW三浦知良も含まれていた。対照的に育成組織から昇格してくる生え抜きの選手がほぼ皆無だった状況を受けて、04シーズンの途中から監督を務めた柱谷氏は「育成組織の改善なくして、チームの未来なし」と危機感を募らせた。

 関西圏のJクラブでは、宮本恒靖や稲本潤一らのワールドカップ代表選手が輩出した実績から、ガンバ大阪ユースが子どもたちの憧れの存在になっていた。京都府長岡京市出身で天才少年として注目されていた宇佐見貴史も、中学進学とともにガンバの下部組織に加入している。

 ガンバに追い付け、追い越せを合言葉に、セレッソ大阪はユース選手が入寮する選手寮を新設。ヴィッセル神戸も、04年にチームの経営権を取得した神戸出身の三木谷浩史氏が総工費約2億3000万円を全額負担して、三木谷ハウスと呼ばれる選手寮を完成させている。

 後発組の京都に必要なのは下部組織の改善だけでなく、子どもたちが加入したくなるような、両親が子どもたちを預けたくなるような“目玉”だった。そこで打ち出されたのがサッカーだけに限らず、他の分野に出ても活躍できる人材を育てる文武両道路線だった。