なぜ、「正論」を主張しても、組織は1ミリも動かないのか? 人と組織を動かすためには、「上司は保身をはかる」「部署間対立は避けられない」「権力がなければ変革はできない」といった、身も蓋もない現実(人間心理・組織力学)に対する深い洞察に基づいた、「ヒューマン・スキル」=「ディープ・スキル」を磨く必要があります。4000人超のリーダーをサポートしてきたコンサルタントである石川明さんが、現場で学んできた「ディープ・スキル」を解説します(本連載は『Deep Skill ディープ・スキル』(石川明・著)から抜粋・編集してお届けします)。

「内向的」なのに、社内で強い影響力をもつ人の「したたかな戦略」とは?写真はイメージです。 Photo: Adobe Stock

「小狡い細工」をすれば、
大きな代償を求められる

 人と組織を巧みに動かす──。

 そのための技術を、最新刊『ディープ・スキル』では「ディープ・スキル」と呼んでいます。そして、このスキルを磨くためには、「人間心理」や「組織力学」に対する洞察を深める必要があると述べています。

 このように書くと、多くの読者は「人間心理」や「組織力学」の裏をかいて、ずる賢く立ち回ることをイメージされるかもしれません。しかし、それは私の真意とはまったく異なります。むしろ、組織の中でずる賢く立ち回ることによって、それが裏目に出ることが多く、逆に「ディープ・スキル」を発揮できなくなってしまうのです。

 例えば、新規事業の承認を得やすくするために、投資規模が一見大きくないように、数字の見せ方に手を加えようとする人がいます。承認さえ取ってしまえばその後の投資額が多少膨らんだとしても、なんとかごまかせると踏んでいるのです。

 しかし、こういう小狡い細工によって目先の利益(この場合は、事業化の決裁を得ること)を求めると、あとになって大きな代償を支払うはめになりがちです。

 この場合であれば、後日、上役に途中状況の報告をしたとき、「そういえば、この投資額はもともとの計画額を超えているのではないか?」と指摘され、「いや、実は……」と事後説明をしたとしても納得は得られないでしょう。一度、「この数値は本当か?」などと疑念をもたれれば、あれこれ言い逃れをしようとすればするほど、上役は不信感を募らせるに違いありません。

 なんとかごまかし通し、決定的な問題にまでは発展しなかったとしても、上役が一度抱いた不信感が消えることはありません。この不信感を払拭するのは、至難のわざ。その後、上役の信頼を失った代償を、延々と払い続けなければならなくなるのです。

 この代償はきわめて大きい。

 なぜなら、誰も「信頼できない人間」の言うことを聞き入れてはくれないからです。

「何をどのように伝えるかが大事」などと言われることがありますが、実際のところは、相手は常に「誰が言うか」で判断します。相手に「信頼できない人間」と思われている限り、どんなに正しいことを言っても受け入れてはもらえないのです。一度きりの期間限定での取引であれば「この場さえうまくしのげば」で済んだとしても、同じ組織の中で長く一緒に働いていく間柄となれば、そうはいきません。

 つまり、「信頼できない人間」と思われている限り、人や組織を動かす仕事などできはしないということです。

 人や組織を動かすとは、「この人に任せてみたい」「この人に力を貸したい」「この人の言うことなら信用できる」などと、周囲の人たちに自発的に思ってもらうことにほかなりません。そのためには、自分が「信頼される人間」であることが大前提となるのです。

コツコツと貯めた「信頼」が、
「大きな力」を与えてくれる

 では、信頼を勝ち取るためには、どうすればいいのか?

 答えは簡単です。誠実であること、これに尽きます。

「礼儀正しくする」「謙虚である」「嘘をつかない」「約束やルールを守る」「誰とでも分け隔てなく接する」「間違ったときには謝る」など、幼稚園や小学校のときから学んできた「当たり前のこと」を忠実に守り続けること。それ以外に、信頼を勝ち取る道はありません。

 こう言うと、「子どもの頃とは違う。仕事で成果を出せばいい」と考えるかもしれませんが、日々、当たり前の小さな信頼を積み上げることができなければ、多少の成果が出たとしても、活躍の場が広がることはないでしょう。

 重要なのは、コツコツと「信頼」を積み重ねることです。

「信頼」とは、実に脆いものです。人が誰かを心の底から信頼するのには長い時間がかかる一方、たった一度の不誠実な言動で、積み重ねてきた「信頼」は脆くも崩れ去ります。そして、「誘惑」は常に私たちのそばにあります。ちょっとずる賢く立ち回れば、目先の利益を得られたり、失敗をごまかせたりするシチュエーションはいくらでも訪れるからです。

 そんなときに、小狡い細工をするのではなく、多少の不利益を被ったとしても、真正直に対応することが大事。そのように自分を律し続け、周囲の人々からの「信頼資産」をコツコツと貯めることこそが、長期的には私たちに大きな力を与えてくれるのです。企業においても、目先の利益を確保する施策と、中長期的な戦略投資の両方が必要ですが、それは人においても同じことなのです。

単なる「いい人」になってはいけない

 ただし、単なる「いい人」になればいいわけではありません。

 人や組織を動かすためには、コツコツと「信頼資産」を貯めることが不可欠ですが、それだけで動いてくれるほど世の中は甘くありません。そこに、「人間心理」や「組織力学」に対する洞察を踏まえた、したたかな戦略性が加わることで、はじめて人や組織を動かすことができるようになるのです。

 では、したたかさとは何か?

 私がよく思い起こすのは、ある大手企業の新規事業に伴走したときにご一緒させていただいた、担当役員の伊藤さん(仮名)です。役員でありながら、威圧感は皆無。「内向的」とも言うべき穏やかな性格で、誰とでも分け隔てなく丁寧に接する好人物でした。

 ただし、仕事の実績は半端なものではありません。歴史のある大手企業で新規事業を立ち上げるのは並大抵のことではありませんが、伊藤さんは、若い頃から、数々の新規プロジェクトを成功に導いてこられました。穏やかな人柄からは想像できないほど、アグレッシブな仕事をされてきたわけです。

 そんな伊藤さんが、笑い話として教えてくださったエピソードがあります。

 30代の頃、「ルーチンワークだけではなく、もっと面白いことがやりたい」と思った伊藤さんは、長年温めてきた新規プロジェクトを上層部に提案。予想通り、前代未聞の提案に対して、上層部のみならず、周囲からも否定的な声ばかりが寄せられたそうです。

 ところが、持ち前の粘り強さで上層部の承認を取り付け、悪戦苦闘しながらプロジェクトを軌道に乗せ始めると、徐々に周囲の反応が変わっていきました。

 かつては否定的な発言をしていたはずの人々までもが、「俺も、いいアイデアだと思っていたんだ」などと言い始め、なかには、ちょっと手伝ってくれただけなのに、「あのプロジェクトの成功要因はね……」などと、あたかも当事者のように語る人も現れたそうです。