ノーベル賞経済学者リチャード・セイラーが「驚異的」と評する、傑出した行動科学者ケイティ・ミルクマンがそのすべての知見を注ぎ込んだ『自分を変える方法──いやでも体が動いてしまうとてつもなく強力な行動科学』(ケイティ・ミルクマン著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)。世界26ヵ国で刊行が決まっている世界的ベストセラーだ。「自分や人の行動を変えるにはどうすればいいのか?」について、人間の「行動原理」を説きながらさまざまに説いた内容で、『やり抜く力 GRIT』著者で心理学者のアンジェラ・ダックワースは、「本書を読めば、誰もが超人級の人間になれる」とまで絶賛し、序文を寄せている。本原稿では同書から、その驚くべき内容の一部を特別に紹介する。
「誓約するだけ」で守りたくなる
たとえばあなたは多忙な医師で、喉の痛みと鼻づまり、咳の症状を訴える患者を診察しているとしよう。患者はこのつらさから解放してくれる薬の処方箋をほしがっている。もちろん、あなたは助けてあげたい。
だが、患者が抗生物質を出してほしいと言うのに対し、あなたはその症状から、連鎖球菌性咽頭炎や肺炎などの細菌感染症ではなく、風邪の疑いが濃厚だと診断したとしよう。
細菌感染症の可能性はないとは言えないし、その場合は抗生物質が有効だが、あなたの診るところたぶんそうではない。
この症状に抗生物質はほとんど効かないうえ、高くつくし、じんましんや下痢、吐き気などの副作用も心配だ。それに抗生物質をむやみに処方すると抗生物質耐性菌が増え、将来の感染症の治療が困難になるおそれもある。
そんなわけで、あなたは厄介な決断を迫られている。あなたは患者がほしがる処方箋を書いてあげたい誘惑に勝てるだろうか? それともエビデンスや医療ガイドラインを無視して、効くはずだと患者が思い込んでいる薬を与えるだろうか?
医師を完全無欠の人間だと信じたいのはやまやまだが、研究によれば、多くの医師が患者の求めに応じたいという誘惑に屈している。実際、アメリカの成人は年間推定4100万件の不必要な抗生物質の処方を受け、そのコストは(薬の代金だけで)10億ドルを下らない。
頭の中で誓うだけでは弱い
この厄介な状況を踏まえて、創造性あふれる行動科学者と医師のチームが、問題解決に役立ちそうなアイデアを思いついた。
一般に、とても重要な目標(この場合でいえば、患者の要求に負けずに賢明な意思決定を行うこと)を追求するときは、その目標を頭の中でじっくり考え、自分には達成できると言い聞かせるだろう。そしてその目標を親友や家族、同僚に向かって誓うこともあるだろう。だが工夫といっても、せいぜいそんなところかもしれない。
抗生物質の不必要な処方を減らすことを願う研究者たちは、処方までの過程にもう一段階加えれば、医師が患者の要求に屈する前に、いつも以上に再考できるのではないかと考えた。
そこで医師たちに、「必要がない限り抗生物質は処方しません」という正式な誓約書に署名してもらい、それを待合室に貼り出したのだ。
「書いて貼るだけ」で絶大な効果
この戦術には、次のような心理が働くはずだった。
誓約書に署名し、壁に貼っておけば、不必要な処方を行うことに心理的抵抗を感じるようになる。抗生物質の処方箋を書きたい誘惑に駆られたとき、書けば誓約を破ることになるのをいやでも意識する。なにしろ、「処方しない」と約束する自分の署名入りの手紙が額に飾られているのだから。要するに、不必要な抗生物質を処方することの心理的なコストが高くなったのだ。
このアイデアを考案したチームは、ロサンゼルスの5軒の繁盛する総合診療クリニックに話を持ちかけ、経営者の協力を得て実験を行った。
クリニックに勤務する医師の一部に、「益より害が大きいと考えられる場合は、抗生物質の処方を控えることを誓います」という誓約書に署名して待合室に掲示するよう求めた。
残りの医師(対照群)には何も依頼しなかった。
実験期間中、クリニックには急性感冒の症状を訴える患者が約1000人訪れた。そして誓約書の署名と掲示をした医師は、対照群に比べて、不適切な抗生物質の処方が3分の1に減った。
これは驚異的な数字だ。だが私が何よりも感銘を受けたのは、誓約を破ったら罰金を取られるというわけでもないのに、多くの医師がそれに影響されて行動を変えたことだった。
(本原稿は『自分を変える方法──いやでも体が動いてしまうとてつもなく強力な行動科学』からの抜粋です)