ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「生きる意味が見つからない……」絶望するあなたを変える、たった1つの言葉Photo: Adobe Stock

生きている限り、希望はある

「人間はいつかは死ぬ。それでもその死がすべてを終わらせるわけではない、生きている限り希望がある」ということを教えてくれる名句があります。

Letum non omnia finit.
レトゥム・ノン・オムニア・フィニット
死がすべてのことを終わらせるわけではない。

 確かにこの言葉は否定できません。世代を受け継ぐ職人だって、師匠の亡き後もその技術は絶えることはなく、弟子たちの手でその次の代へと引き継がれていきます。

 言い換えれば、人間は永遠から来て有限を生き、永遠に還る存在なのです。永遠が神の時間ならば、有限は人間の時間であるはずです。

 たとえ私が「今ここで」苦しんでいても、神の時間軸で考えれば、ただ流れゆくひとつの点みたいなものです。しかし、それが現実ならば、私は自らを単なる小さくて取るに足りない存在として消えていきたくはありません。

 私たちは、ただひとりひとりに与えられたことを行い、目の前に開けた空間を埋めていくだけです。

 だから私の希望とは、たとえ「死ぬ」という選択肢を突き付けられても、絶対に受け入れないことです。それが私の最高の希望です。

 私にとって希望とは、何かを成し得ることや、何かに対する期待やそれを満足させたいという気持ちなどではありません。ただ「希望」そのものが私の命であり、生かしてくれるものなのです。私は死と直面したときにこれを悟りました。

 ただ、もし今この瞬間の希望を問われるなら、生きていても風のような人生を送ることです。人間が分けた境界、神の思し召しに関係ない人間の欲望を、不合理で不可解なこの世のあらゆることを、自由に吹き抜ける風のように生きられたらなんと素晴らしいことかと思います。

 私が人間である限り、この世界に属している限り不可能だと知りながらもそんな夢を見ています。だから「希望」なんでしょうけどね。

 みなさんは何を夢見ていますか? どんな希望を抱いていますか?

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)