失敗する組織内には、指導者たちの合理的な判断によって、「やましき沈黙」が生じる。そして、どこかに潜んでいた「黒い空気」が、いつのまにか組織全体を覆ってしまう――。慶應義塾大学商学部教授・菊澤研宗氏は、「不条理」研究の先駆者として多くの著作があるが、その集大成として、組織を失敗に至らせる病を「黒い空気」と表現する。この概念は、戦史の事例研究に端を発するものだ。一例として、「義烈空挺隊の沖縄攻撃とその指揮官たち」についての論考を紹介する。
※本稿は、菊澤研宗『指導者(リーダー)の不条理』(PHP新書)より抜粋し再編集したものです。
義烈空挺隊の沖縄攻撃と「黒い空気」
太平洋戦争の初頭、日本陸軍の空挺部隊は、石油を確保するために、蘭印(インドネシア)のパレンバンに降下し、大成功を収めた。空から舞い降りる華麗なる空挺部隊は「空の神兵」と呼ばれ、華やかなデビューを飾った。当時、その部隊に憧れた若き日本兵は多かった。
その空挺部隊の歴史をたどると、開戦の前年、1940年12月に、浜松陸軍飛行学校練習部が創設され、落下傘部隊つまり空挺部隊に関する実験および検証が開始された。そして、1年後の1941年12月1日に、陸軍初の空挺部隊第一挺進団が編成され、ここに日本軍の空挺部隊が誕生したのである。
そして、1942年2月14日に蘭印(インドネシア)の大油田地帯であるスマトラ島パレンバンを挺進第二連隊が奇襲し、地上部隊と連携して見事に奇襲作戦に成功した。このとき、空挺部隊はまず飛行場を占領し、その後パレンバン市を占領し、そして敵による油田地帯の爆破を阻止して石油を確保した。こうして、ジャワ攻略作戦は成功した。当時の空挺団の活躍が、軍歌「空の神兵」として歌われたのである。
その後、陸軍挺進部隊は拡充されて「挺進集団」となり、四個の挺進連隊と二個の滑空歩兵連隊の大部隊となった。しかし、米軍の反攻が激しくなりはじめると、日本軍は徐々に形成不利となり、空挺作戦の実施自体が厳しくなった。そのため、わずかに比島(フィリピン)作戦で少数兵力の空挺降下を行なっただけだった。
その後も出番はさらに少なくなり、空挺部隊は翻弄され続けた。空挺部隊の中でも、最高の精鋭部隊といわれていた部隊が、悲運の「義烈空挺隊」であった。この空挺隊は、海軍の戦艦大和と同じように出番がなく、陸軍の中で温存され続けた。この遅れてきた悲運の部隊をめぐって発生した「黒い空気」について説明してみたい。