ラテン語こそ世界最高の教養である――。超難関試験を突破し、東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」「生きる勇気が湧いてきた」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

聖書は弟子たちが作った“授業ノート”だった? 教養としての宗教Photo: Adobe Stock

聖書は、弟子たちが作った”授業ノート”だった!?

 キリスト教では次のような話がありますね。イエスが地上生活をしていたときの話です。

 イエスが弟子たちに向かって「あなたがたはこのたとえがわからないのか。それでは、どうしてすべてのたとえが理解できるだろうか」(『マルコによる福音書』4:13)と問い、次のような行動をとるのです。

「イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてのことを解き明かされた」(『マルコによる福音書』4:33)。

 こうしたイエスの配慮にもかかわらず弟子たちの中には「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」(『ヨハネによる福音書』6:60)とつぶやく者もいたといいます。

 つまりイエスですら、弟子たち全員を理解させることは不可能だったのです。この話は、教える立場にいる私にとって実に慰めになりました。

 そう考えてみると聖書というものも、弟子たちが師であるイエスの言葉を聞いて得た話を、さらにその弟子たちに向けて記し、その弟子がまた次の弟子に受け渡すために記録した“弟子たちの授業ノート”のようなものだったと言えなくもないでしょう。

 だとしたら、こんなことも気になります。学生たちの授業ノートをチェックすると、まれに間違えて書き留められていることがあります。

 そんなときは「ここ、違っていますよ」と指摘して訂正するのですが、これと同様に、聖書やイスラムの経典にも、そのようなミスがまったくなかったとは断言できないと思うのです。聖書はイエスの日常の一部始終が記されているわけではありませんからね。

 これについて『ヨハネによる福音書』21章25節でも、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」とつづられています。

 ならば、イエスの教えと行いがまとめられた聖書とは(その解釈において絶対的な基準が揺らいではいけませんが─)、イエスの教えのすべてが記録されているわけでも、イエスの意図が完璧に盛り込まれているわけではない点も念頭に置くべきではないでしょうか。

 しかし残念なことに、現実はこれとは反対のようです。

 私たちが生きる今の時代でも、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めをおしえとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。あなたがたは、神の戒めをさしおいて人間の言い伝えに固執している」(『マルコによる福音書』7:6-8)という嘆きが、あちらこちらから聞こえてきそうです。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)