この世のありとあらゆる「嘘」を解体する『ぼくらは嘘でつながっている。』という本があります。著者で元NHKディレクターでもある小説家の浅生鴨氏が、たった「一文字」から嘘が見抜かれていく過程を紹介します。(構成・撮影/編集部・今野良介)
「あ」か「そ」か
あらゆる言葉は嘘ですから、その中からさらに「相手を騙すための事実ではない話」を見つけ出すのはかなりの難作業なのですが、ときには、ちょっとした単語の使い方に嘘の可能性が隠されている場合があります。
女「ねえ。どうして昨日、駅前で私を無視したの?」
男「あれはさ、ほら、ちょうど君が誰かに話しかけようとしていたからだよ」
女「ねえ。どうして昨日、駅前で私を無視したの?」
男「それはさ、ほら、ちょうど君が誰かに話しかけようとしていたからだよ」
この二つの文章の違いがわかるでしょうか。
どちらのやりとりのほうが嘘をついている可能性が高いと思われるでしょうか?
二つの文章で違っているのはたった一文字。「あれ」の「あ」と「それ」の「そ」だけです。
ちょっとだけややこしい文法の話になってしまいますが、日本語の指示代名詞には近称、中称、遠称、そして不定称があります。いわゆる「こそあど言葉」と呼ばれているものです。
例文で使ったのは遠称の「あれ」と中称の「それ」でした。一般的に中称は、話し手よりも聞き手に近い位置を指すものとされていますが、実はそれ以上に奇妙な機能を持っています。
本来、ものの位置を示す「あれ」や「それ」ですが、例文では、ものの位置ではなく、過去の事象そのものを指していることはおわかりになるでしょう。このとき指示代名詞の「それ」が示す事象は、どうやら会話の中だけに留まっているように僕には思えるのです。
ゆっくり考えてみましょう。
「あれはさ」と答える男性の頭の中には、どんな映像が浮かんでいるでしょう。
二人が出会った駅前のシーンが浮かんでいると思いませんか?
僕には過去を振り返って実際に見たものを再現しているように感じられます。「あれはさ」の「あれ」には二人が共通して遡ることのできる特定の時間が含まれています。このときの「あれ」は、二人の過去の記憶を指しているのです。
ところが「それはさ」は、いったい何を示しているのでしょうか。
この場合の「それ」は「なぜ彼女を無視をしたのか?」という理由に限定されているように僕には感じられます。頭の中のイメージは、過去のその瞬間に遡っているのではなく、今この場の会話として処理している言葉のように思えるのです。
つまり「それ」は、ここでの会話そのものを指しているわけです。
実際にその瞬間を思い出しながらの説明と、今この場の会話のための説明。嘘の確率が高いのはいったいどちらでしょうか?
僕は自分が書く小説でも、こんなふうにして、登場人物の心情を台詞として書いています。
もちろん、現実の世界ではここまで厳密に言葉を選びながら話しているわけではありません。それでも、口調や言い淀みだけではなく、口にした言葉のちょっとした単語から、その人が嘘をついているかどうかを、少なくともその可能性を考えることくらいはできそうです。
それにしても、フィクションではたった一つの単語、いやたった一文字を変えるだけで、登場人物の頭の中や心の動きを変えることができるわけです。(了)
1971年、兵庫県生まれ。作家、広告プランナー。出版社「ネコノス」創業者。早稲田大学第二文学部除籍。中学時代から1日1冊の読書を社会人になるまで続ける。ゲーム、音楽、イベント運営、IT、音響照明、映像制作、デザイン、広告など多業界を渡り歩く。31歳の時、バイクに乗っていた時に大型トラックと接触。三次救急で病院に運ばれ10日間意識不明で生死を彷徨う大事故に遭うが、一命を取りとめる。「あれから先はおまけの人生。死にそうになるのは淋しかったから、生きている間は楽しく過ごしたい」と話す。リハビリを経てNHKに入局。制作局のディレクターとして「週刊こどもニュース」「ハートネットTV」「NHKスペシャル」など、福祉・報道系の番組制作に多数携わる。広報局に異動し、2009年に開設したツイッター「@NHK_PR」が公式アカウントらしからぬ「ユルい」ツイートで人気を呼び、60万人以上のフォロワーを集め「中の人1号」として話題になる。2013年に初の短編小説「エビくん」を「群像」で発表。2014年NHKを退職。現在は執筆活動を中心に自社での出版・同人誌制作、広告やテレビ番組の企画・制作・演出などを手がける。著書に『伴走者』(講談社)、『アグニオン』(新潮社)、『だから僕は、ググらない。』(大和出版)、『どこでもない場所』『すべては一度きり』(以上、左右社)など多数。元ラグビー選手。福島の山を保有。声優としてドラマに参加。満席の日本青年館でライブ経験あり。キューバへ訪れた際にスパイ容疑をかけられ拘束。一時期油田を所有していた。座間から都内まで10時間近く徒歩で移動し打合せに遅刻。筒井康隆と岡崎体育とえび満月がわりと好き。2021年10月から短篇小説を週に2本「note」で発表する狂気の連載を続ける。