語りかけてくれるような軽妙な文体ながら、今までにないアプローチと深さの解説で企業の若手社員や経営者、さらには専門研究者からも絶大な評価を得ている『新解釈コーポレートファイナンス理論~「企業価値を拡大すべき」って本当ですか?』。その著者・宮川壽夫教授に、ビジネスパーソンがコーポレートファイナンス理論を学ぶことの意義について語っていただくシリーズ連載(全5回)をスタートします。第1回は、コーポレートファイナンス理論があらゆるビジネスシーンで武器となる理由についてです。
根本的でシンプルな企業行動のミステリーを解き明かす
彼に声をかけられたのはつい先日、都内で開かれたパーティでのことだった。外資系の投資銀行を経て新興企業の若いCFOとなった彼は私と同じくらい背が高かったが、私と違って端正なマスクを持ち、いかにも明晰そうな滑舌の効いた、それでいて穏やかな口ぶりの人だった。彼は大学でコーポレートファイナンスを学んだとき、そのおもしろさで体に電流が走る思いがしたという。珍しい人ではある。
彼は社会に出ると大学で学ぶ理論と実務はきっと違うだろうと想像していたが、「コーポレートファイナンスで学んだことだけは今自分の目の前にある現実と寸分の違いもありません。そっくりそのまま仕事に生きています」。冷静に見えた彼だったが、そのときだけは片手にワイングラスを持ったまま両方の手で小さな幅を作り、「寸分の違いもない」ところを強調して見せた。そして、日本企業に勤める人は全員がこの勉強をすべきだと力強く言った彼の目は、立食パーティの会場に新たに運ばれてきたローストビーフに一瞬だけ移ったものの、揺るぎない意思を感じさせた。
現在、日本企業で働く中堅以上のビジネスパーソンでコーポレートファイナンス理論を大学時代に学んだという方はそう多くないだろう。しかし、その一方で海外のビジネススクールに留学されたり、MBAの学位を取得されたりした方でコーポレートファイナンス理論を勉強しなかったという方はいらっしゃらないはずだ。ビジネススクールでは絶対にはずせないど真ん中の必須科目がコーポレートファイナンスだ。
ただ、コーポレートファイナンス理論と聞くと、複利の計算式とか金利の期間構造とか、あるいはポートフォリオ理論の平均分散モデルといったテクニカルなテーマばかりが先に思い浮かんでしまう人が多いかもしれない。そのテのことが苦手な人にとっては教科書のわりと早い段階から苦行が訪れる。そしてポートフォリオ理論ともなると、数式とたわむれる行為そのもので忘我の境地に入れる人にはいいが(実際そういう人はかなりいて、ポートフォリオ理論のエレガントさには恍惚となるはずだ)、そうでない人にとっては一体これはなんのためにやっているのかまったくわからないままにただただ重いページをめくり続けるという比叡山延暦寺あたりの荒行を思わせるほどの修練と感じるかもしれない。
しかし、そういうテクニカルな細かいスキル養成の部分を除いて、コーポレートファイナンス理論の全体像をとても大まかに表現してしまうなら、企業とはそもそもなにか、そして企業はなぜそのような意思決定を行うのかといった根本的な企業行動のミステリーを解き明かす学問だ。
企業はまず事業に必要な資金を調達し、その資金を事業に投資し、その成果を出資者に配分するという基礎的な生命活動を極めて高いレベルで行っている。それは人間に例えるなら生命を維持するための新陳代謝に関する構造原理のようなものだ。ビジネススクールにはマーケティングや戦略やアカウンティングといった多くの履修科目があるが、コーポレートファイナンスの特徴はこの企業の基礎的生命活動に立ち返って企業の構造を学ぶところにある。それは経営を考えるベースと言っていいだろう。だからビジネススクールではなくてはならない象徴的な科目なのだ。
すぐれた戦略やすぐれたマーケティングというものがあるのかもしれないが、戦略やマーケティングの理論ではなぜそれがすぐれているかについて学ぶことはあっても、そのすぐれた経営を行った結果企業がどのような成果を生んだかという評価にまでは必ずしも議論が及ばない。コーポレートファイナンス理論は企業の価値という概念を用いてその議論に極めて明確な答えを導いてくれる。つまりは金融機関に勤める人のみが勉強するものではない。むしろ事業会社の方々こそ勉強して得られるものが大きい。
経営の努力に明確な答えを出してくるコーポレートファイナンス理論
コーポレートファイナンス理論の教科書ではだいたい最初の章が「価値」ということになっていて、ここでは割引現在価値の計算を学ぶ。企業の経営がもたらす価値は、企業が将来獲得するキャッシュフローを資本コストという割引率で割り引いた現在価値と定義される。価値は過去の実績につくのではなく、将来の予想によって形成されるというわけだ。コーポレートファイナンス理論では価値と言ったら割引現在価値以外を意味しない。そこで、最初に現在価値に割り引くという方法を勉強する必要がある。たとえば、おそらく世界で最も売れているコーポレートファイナンス理論の教科書“Principles of Corporate Finance”, R. Brealey, S. Myers & F. Allen, MacGraw-Hill(邦題『コーポレートファイナンス』ブリリー、マイヤーズ、アレン[日経BP社])はそういう構成になっている。
「今日の1ドルは明日の1ドルより価値がある」などというしっくりこない格言に翻弄される上に、永久債の計算とか配当割引モデルとか、教科書からは次々と重たいパンチが繰り出されるが、要するに割引現在価値の計算方法をトレーニングしているに過ぎない。実はこの計算方法さえ知っておけばファイナンス以外の経営学分野でいずれ何度も役に立つことになる。
割引現在価値の次にはリスクの章に突入する。ガラリと話は変わっていきなりポートフォリオ理論の難所に差しかかる。今度は「ひとつのかごに一度に卵を入れてはならない」といったちょっとイケてない格言から分散投資が説明される(だって卵なんて普通はひとつのカゴに入れて運ぶでしょうに)。
人間はだれでもリスクを避けてリターンを得たい。そういう行動をした結果、最後にはどこまでリスクを最小化できるのか、そしてそのリスクから得られるリターンはどれくらいか、という作業のプロセスの話なのだが、要するにハイリスクを選べばハイリターン、ローリスクを選べばローリターンという常識だけは忘れないでね、がメインメッセージであるに過ぎない。そして、ここで割引現在価値を計算するための資本コストがなんなのかがついに明らかにされる。
企業の経営努力が生み出す価値は将来キャッシュフローの予想とその予想に対する不確実性(リスク)つまりは資本コストによって決まる。だから株主は自分が取れるリスクに応じたリターンを得られる企業に出資し(言い換えれば資本コストに応じた企業に出資し)、企業はそのリターンに応じたリスクを取って事業に投資を行い(言い換えれば資本コストに応じた事業に投資を行い)、得られたリターンを株主に配分する(資本コストに応じた還元を行う)仕組みになっている。
ここまで来るともうあなたの脳みそはかなりの部分が鍛えられている。なんとなく達成感が得られないかもしれないが、知らないうちに確実に頭がよくなっているはずだ。ただし、拙著ではこの結論に早く到達するよう肝心なことだけを凝縮して無駄なことは省き、より身近なメタファーを弄しながら、かつここでお話した一般的なファイナンスの教科書とは逆の順番を辿ることにしている。そこにはいろいろな理由があって工夫を施した点だ。試してみていただきたいのだが、その方がより頭に入りやすく、より早く頭がよくなるよう成功している自信がある。
ビジネスパーソンが持つべき根っこの理屈
この段階で早くも経営現場のさまざまなシチュエーションでアイデアを巡らせることが可能になる。企業は価値を創出する事業をどのように判断して投資の意思決定をすべきか、そして、その意思決定のプロセスがなぜ公平で合理的なのか、この大もとになる理屈を根っこに持っておくと企業の日々の動きに敏感になる。
自社の過去の業績を評価するとき、将来の事業計画を練るとき、新規事業に乗り出すとき、競合他社の動きを分析するとき、企業の買収を検討するとき、根っこに持っているブレない理屈を中心に放射線状の発想ができるようになる。冒頭で紹介した若いCFOはそういう発想の仕方が身についているのだと思う。だから彼は自分が学んだ理論が、まるでピタリと形の合った楔が現実の世界に打ち込まれるように感じたのかもしれない。コーポレートファイナンスによって鍛えられた脳みそは、経営者や従業員がどの方向に向かえばいいのか正確な示唆を与えてくれるはずだ。
目の前の具体的な現象に対して、どこから考え始めればいいのかという抽象的な始点をブレずに持っている実務家は強い。逆説的に聞こえるかもしれないが、ブレない始点を持っている人は実はものごとを多面的に捉えることができる。一見多面的に捉えているように見えても根っこがない人の多面性は単に思いつきの選択肢を増やしているだけで行き当たりばったりなものになってしまうからだ。
コーポレートファイナンス理論はあなたの根っこになる始点を与えてくれるに違いない。それは人間の基礎的な生命活動の構造を理解しておくようなもので、その知識がないと個々の症状として現れる病気を治すことができないのと同じだ。
このコラムを読んだことを契機にあなたも勉強を始めてみてはいかがでしょう? 次回はビジネスパーソンが持つべきスキルとはなにかについて考えます。