NYタイムズが「映画『チャイナ・シンドローム』や『ミッション:インポッシブル』並のノンフィクション・スリラーだ」と絶賛! エコノミストが「半導体産業を理解したい人にとって本書は素晴らしい出発点になる」と激賞!! フィナンシャル・タイムズ ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤー2022を受賞した超話題作、Chip Warがついに日本に上陸する。
にわかに不足が叫ばれているように、半導体はもはや汎用品ではない。著者のクリス・ミラーが指摘しているように、「半導体の数は限られており、その製造過程は目が回るほど複雑で、恐ろしいほどコストがかかる」のだ。「生産はいくつかの決定的な急所にまるまるかかって」おり、たとえばiPhoneで使われているあるプロセッサは、世界中を見回しても、「たったひとつの企業のたったひとつの建物」でしか生産できない。
もはや石油を超える世界最重要資源である半導体をめぐって、世界各国はどのような思惑を持っているのか? 今回上梓される翻訳書、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』にて、半導体をめぐる地政学的力学、発展の歴史、技術の本質が明かされている。発売を記念し、本書の一部を特別に公開する。
半導体メーカーによる過剰投資こそ
日本不調の原因だった
ソニーの盛田昭夫は、1980年代、ジェット機で世界中を飛び回り、ヘンリー・キッシンジャーとの夕食、オーガスタ・ナショナルでのゴルフ、三極委員会などでの世界のエリートたちとの交流に明け暮れる毎日を送っていた。
彼は国際舞台でビジネスの賢人として崇められ、昇り竜のような勢いの世界的な経済大国、日本の代表的人物として扱われていた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」〔「ナンバーワンとしての日本」という意味で、アメリカが教訓にすべき日本の高度経済成長の要因について分析したエズラ・ヴォーゲルの1979年の著書のタイトルとして有名〕の体現者だった彼にとって、この言葉を信じるのはたやすかった。ソニーのウォークマンをはじめとする消費者家電を追い風に、日本は繁栄を遂げ、盛田は財を築いた。
ところが、1990年に危機が襲いかかる。日本の金融市場が崩壊したのだ。経済は落ち込み、深刻な不況へと突入した。たちまち、日経平均株価は1990年の水準の半値近くにまで下落し、東京の不動産価格はそれ以上に暴落した。日本経済の奇跡が音を立てて止まったのだ。
一方、アメリカは、ビジネスの面でも戦争の面でも復活を遂げる。わずか数年間で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」はもはや的外れな言葉に思えてきた。日本の不調の原因として取り上げられたのが、かつて日本の産業力の模範として持ち上げられていた産業だった。そう、半導体産業である。
ソニーの株価急落とともに、日本の富が目減りしていく様子を眺めていた69歳の盛田は、日本の問題が金融市場より根深いものだと悟った。彼は1980年代、金融市場における「マネー・ゲーム」ではなく、生産品質の改善に励むよう、アメリカ人に説いてきた。
しかし、日本の株式市場が崩壊すると、日本自慢の長期的な思考がとたんに色褪せて見えてきた。日本の表面上の優位性は、政府が後押しする過剰投資という名の持続不能な土台の上に成り立っていたのだ[1]。
安価な資本は半導体工場の新造を下支えした反面、半導体メーカーが利益よりも生産量に目を向けるきっかけとなった。マイクロンや韓国のサムスンといった低価格なメーカーが価格競争で日本企業に勝っても、日本の大手半導体メーカーはDRAM生産を強化しつづけたのである[2]。
日本のメディアは半導体部門で起きている過剰投資に気づき、新聞の見出しで「無謀な投資競争」「止められない投資」などと警鐘を鳴らした。しかし、日本のメモリ・チップ・メーカーのCEOたちは、利益の出ないなかでも、新しい半導体工場の建設をやめられなかった。
日立のある経営幹部は、過剰投資について「心配しだすと、夜も眠れなくなる」と認めた[3]。銀行が融資を続けてくれるかぎり、収益化の道はないと認めるよりも、支出を続けるほうがCEOたちにとっては楽だった。
アメリカの非情な資本市場は、1980年代にはメリットとは思えなかったが、裏を返せば、融資を失うリスクこそがアメリカ企業を常に用心させたともいえる。
日本の半導体メーカーが犯した
最大のミスは「PCの隆盛を見逃したこと」
日本のDRAMメーカーは、アンディ・グローブのパラノイアや、商品市場の気まぐれに関するジャック・R・シンプロットの知恵から学べることがあったはずなのに、全員でいっせいに同じ市場に投資した結果、共倒れを運命づけられてしまったのだ。
その点、DRAMチップに大きく賭けることがなかったという意味で、日本の半導体メーカーのなかでは異色の存在だったソニーは、イメージ・センサー専用のチップなど、革新的な新製品の開発に成功した。
光子〔光の粒子〕がシリコンに当たると、チップにその光の強さに比例する電荷が生じるため、画像をデジタル・データに変換することが可能になる。したがって、ソニーはデジタルカメラ革命を引っ張るには絶好の立場にいたわけで、画像を検知する同社のチップは今でも世界の先端を走っている。
それでも、ソニーは不採算部門への投資の削減に失敗し、1990年代初頭から収益性が目減りしていった[4]。
しかし、日本の大手DRAMメーカーの大半は、1980年代の影響力を活かしてイノベーションを促進するのに失敗した。大手DRAMメーカーの東芝では、1981年、工場に配属された中堅社員の舛岡(ますおか)富士雄が、DRAMとはちがって電源が切られたあともデータを“記憶”しつづけられる新種のメモリ・チップを開発した。
ところが、東芝が彼の発見を無視したため、この新種のメモリ・チップを発売したのはインテルだった。そのメモリ・チップは一般に、「フラッシュ・メモリ」またはNANDと呼ばれている[5]。
しかし、日本の半導体メーカーが犯した最大のミスは、PCの隆盛を見逃したことだった。日本の大手半導体メーカーのなかで、インテルのマイクロプロセッサ事業への方向転換や、同社の支配するPCのエコシステムを再現できる企業はなかった。
唯一、NECという日本企業だけがそれを試みたのだが、マイクロプロセッサ市場でわずかなシェアを獲得するにとどまった。
グローブとインテルにとって、マイクロプロセッサで利益を上げられるかどうかは死活問題だった。しかし、DRAM部門で圧倒的な市場シェアを誇り、財務的な制約がほとんどなかった日本のDRAMメーカーは、マイクロプロセッサ市場を無視しつづけ、気づいたときにはもう手遅れになっていた。
その結果、PC革命の恩恵を受けたのは、多くがアメリカの半導体メーカーだった。一方、日本の株式市場が暴落するころには、日本の半導体分野での優位性はすでにむしばまれつつあった。
1 Michael Pettis, The Great Rebalancing(Princeton University Press, 2013).
2 Yoshitaka Okada, “Decline of the Japanese Semiconductor Industry,” in Yoshitaka Okada, ed., Struggles for Survival(Springer, 2006), p. 72.
3 Marie Anchordoguy, Reprogramming Japan(Cornell University Press, 2005), p. 192.
4 Sumio Saruyama and Peng Xu, Excess Capacity and the Difficulty of Exit: Evidence from Japan’s Electronics Industry(Springer Singapore, 2021); “Determination Drove the Development of the CCD ‘Electric Eye,’ ” Sony, https://www.sony.com/en/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-11.html.
5 Kenji Hall, “Fujio Masuoka: Thanks for the Memory,” Bloomberg, April 3, 2006; Falan Yinung, “The Rise of the Flash Memory Market: Its Impact on Firm Behavior and Global Semiconductor Trade Patterns,” Journal of International Commerce and Economics(July 2007).
(本記事は、『半導体戦争――世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』から一部を転載しています)