近藤昌氏近藤昌氏

一般的にはファッションのコーディネートをする人をスタイリストと表現しますが、私はカルチャー、ライフスタイル、人、あらゆる対象をスタイリングすることが仕事だと思っています。「SHIPS」「ZOZOTOWN」の立ち上げ、日本初のクラブ「TOOLS Bar」のオープン、「CHROME HEARTS(クロムハーツ)」の日本進出などを手掛けてきましたが、そこにはさまざまな経験を重ねて、他人や物事を広く、深く理解する自らの“振り幅”が必要なことがわかりました。連載『伝説のスタイリスト・近藤昌の「人生を変える装い」』の初回では、自己紹介を兼ねて、自分が何をしてきたかお話しします。(スタイリスト&ファッションディレクター 近藤 昌)

7歳から子役、ジャニーズ事務所に入所

 私の父親は映画会社の東宝に勤めていました。千鳥格子のスーツに黒のニットタイをするようなファッションにこだわりのある人で、父は私を役者にするため、小学校2年生の時に東宝芸能学校に通わせました。白いタイツをはいてクラシックバレエをするのが恥ずかしくて仕方がなかったことを今でも覚えています。週に4日芸能学校に通いながらオーディションを受ける日々を送っていました。当時の同期には音楽プロデューサーの永田英二さんや女優の岡崎友紀さんがいます。

 小学校3年生になると一人で電車に乗って現場へ行っていました。子役として江利チエミさん、朝丘雪路さん、三船敏郎さんが主演する作品に出演することができました。このとき、目上の人に対する態度、食事の礼儀作法、女性に対する立ち居振る舞いを含めて、かわいがられながら紳士としての気構えを学ばせていただきました。

 永田さんは 「王様と私」という舞台を見に来ていたジャニー喜多川さんにスカウトされて、ジャニーズ事務所に入りました。この舞台には私も共演していて、少し経ってから永田さんの誘いでジャニーズ事務所に遊びに行くと、ジャニー喜多川さんがその場で母親に電話をして入所が決まりました。中学2年生のころでした。

 ジャニーさんにはショービジネスをたたき込まれました。全国の興行に出演したり、もともと歌や踊りができたので重宝されて、新規メンバーの選考も任されるなど裏方の仕事もするようになりました。

 振り返れば、私たちのグループは初代ジャニーズJr.だったと思います。立ち位置はジャニーズの後輩として人気を博していたフォーリーブスの弟分でした。フォーリーブスにもかわいがっていただき、なかでも江木俊夫さんは憧れの人でした。「Mademoiselle NONNON(マドモアゼルノンノン)」のベルベット素材のワイドパンツとチビTにユアーズというアメリカのスーパーマーケットに売られているビニールレザーの草履を合わせたり、とにかくおしゃれでした。

 私の洋服に対する興味はこのときに生まれたのです。