日本人女性でハーバード公衆衛生大学院にて博士号を取得した、公衆衛生学者の林英恵氏。先ごろ、長生きするための健康習慣をまとめた『健康になる技術 大全』を発行し、話題を集めています。そんな林氏と旧知の仲であり、ベストセラー『統計学が最強の学問である』著者の西内啓氏の対談が実現。西内氏は『健康になる技術大全』の構成や原稿アドバイスも担当しており、世の健康ブームについて、そしてデータやエビデンスの重要性などについて、語り合っていただいた。(構成/伊藤理子)
健康は「感情」にも大いに左右される
林 英恵(以下「林」):『健康になる技術大全』のオビにコメントをいただき、ありがとうございます。
西内 啓(以下「西内」):僕の名前のほうが大きく載っていて驚きましたよ。
林:私の名前よりも大きい(笑)。西内さんには上梓前からこの本に関わっていただきましたが、全体をご覧になってどんな印象を持たれました?
西内:まず手間ひまのかかり方がえげつないなと。
林:ありがとう。
西内:確か書き始めてから完成まで、7年ぐらいかかったんですよね? 途中のプロセスをちょいちょい見ていて、かなり手間をかけているなとは感じていたんですが、完成版のゲラを読ませていただいて、手間の掛け方がさらに異次元になっているなと。巻末の引用文献の量も、日本の本ではあり得ないぐらいのレベルじゃないですか?
林:すごいですよね。学術書ではないのに、参考文献だけで40ページぐらい割いているという。
西内:すごいよね。あと、自分も一部協力させていただきましたが、専門家のレビューもすごい。最後の「謝辞」のページを見ると、ケンブリッジ大学の今村文昭先生とか、東京大学の鎌田真光先生とか、協力者のオールスター感がすごい。
林:西内さんをはじめ、いろいろな方にご協力いただき、感謝しています。参考文献も、本気でちゃんと本を書こうと思ったら自然にあれくらいの量になったという感じで…。参考文献は、校正チェックが大変だったんですよ。ピリオドが1つ抜けているとか、最後はもう連日編集の土江さんと夜通しの作業でした。健康本を作っているのに、編集担当の方と2人で不健康な生活になっていくみたいで(笑)。
西内さん的に、特に興味深かった部分などはありましたか?
西内:いろいろありますが、例えば第8章の「感情」のところの「感情とうまく付き合っていくことはできるのか?」という話は、林さんでしか書けないところだと感じました。
運動や食事をテーマにした健康の本はいろいろあるんですけれど、それ以外の部分でも健康を左右する重要な部分はたくさんあるんですよね。この本は、健康に関するスコープが広いのが特徴的だと思います。
そして構成についてご相談を受けたときに、この「感情」のパートが一番エモくて素晴らしいので、絶対最後に回したほうが良い読後感になり、みんなテンションが上がって「健康になろう!」って思えるよとお伝えしましたが、完成版を見て「間違いなかった」と思いました。
林:構成は、西内さんのアドバイス通りに並べ替えさせてもらいました。
西内:原稿やゲラを見せていただくまで全然知らなかったことがたくさん書かれていて驚きましたが、特に「感情」の章に関しては、自分にとって丸々すべて新しい知識でしたね。
林:マーケティングの世界では、人の感情を動かして決断させる手法はとても一般的なんですけれど、毎日食べるものや、体を動かすか動かさないか、タバコを吸うか吸わないか、お酒をどのぐらい飲むかみたいなことにも、実は感情が大きな影響を与えているんですよね。そういう事実にはなかなか気付けないと思うので、そこを訴えたかったです。
西内:食事の話にも、林さんのこだわりが感じられますよね。健康本を読み慣れている人からすると、従来からよく言われてきたような話が入っていないな、という感想を持たれるかと思います。読者の興味を引きそうなキャッチーな話でも今のエビデンス上、明確に支持されないような話は、バッサリカットされていてより専門的になっている。
林:キャッチーな内容でも「科学的にどうなの?」と思う部分は載せない、科学的に忠実でありたいということにこだわり切ったので、「食事」の章を書くだけで4年ぐらいかかったと思います。
西内:査読付き論文ってありますけれど、これ通常ではありえない、言わば査読付きの一般書みたいなすごい本なんですよ。
林:いや、ぶっちゃけハーバードの博士論文書くのと同じくらいか、むしろこの本を書くほうが重労働だったって思っています。もちろん博士論文も大変ではあって、博士論文の場合、そのテーマについては「世界中で自分が一番よく理解している」と言えるくらい深く調べて書けと指導されます。
ただ、論文は扱うテーマが絞られています。一方でこの本は、扱うテーマが健康全般と広く、書き出したら全てにおいて深くなっていったので、なんてことを始めてしまったのだろうと思いました(笑)。
例えば、玄米と白米の比較で「玄米のほうがいい」と書くのは簡単なのですが、忠実に、誠実にありたいというのがこの本のスタンスなので、「データやエビデンスを一つひとつ丁寧に調べて書く」を追求すると、時間がいくらあっても足りませんでした。しかも書いているうちに新しい研究が次々に出てきて、再度それを協力の先生方に見てもらってという過程を繰り返したので、結果的に何年もかかってしまいました。
東京大学大学院医学系研究科医療コミュニケーション学分野助教、大学病院医療情報ネットワーク研究センター副センター長、ダナファーバー/ハーバードがん研究センター客員研究員を経て、2014年11月より株式会社データビークルを創業。自身のノウハウを活かしたデータ分析支援ツール「Data Diver」などの開発・販売と、官民のデータ活用プロジェクト支援に従事。著書に『統計学が最強の学問である』『統計学が最強の学問である[実践編]』(ダイヤモンド社)、『1億人のための統計解析』(日経BP社)などがある
健康がテーマになると「ふわっとしたエビデンス」が急増する
林:私と西内さんは、2010年ぐらいに出会っているんですよね。西内さんは統計学者で私は公衆衛生を専門に仕事をし始めた頃で、公衆衛生と統計を駆使するプロジェクトで出会ったんですけれど、データやエビデンスで健康づくりができる世の中にしていこうというのが当時、私たちが掲げたミッションで。そしてその後、西内さんがハーバードに研究しに来て共同研究したりしながら交流してきたんですよね。
この間、世の中が急速に「エビデンスを大事にしなければ」という機運に変わったのは西内さんの『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)を始めとする本がきっかけだと思うのですが、それ以降、正直われわれの仕事がぐんとやりやすくなってるんですよ。「データを見ようね」とか「エビデンスはなに?」と言いやすくなったんです。
だから私は、西内さんとの出会いに運命的なものを感じているんです。10年以上前に出会って、ともに志を持ちつつ自分たちの専門性を磨いて、やっとやっとここまで来た。
その過程で西内さんの本がベストセラーになって、世の中の機運が変わり、「データやエビデンスが大事だよね」って言えるようになり、この本を出すことができた。西内さんとダイヤモンド社には本当に感謝しています。
西内:自分の時もそうですが、あれだけ手間をかけて本を作るのは、ダイヤモンド社の素晴らしいところだなと思いますね。過去にダイヤモンド社から書籍に関して「レビューしてください」とお願いされた時も、推薦文書いてくださいみたいな意味じゃなくて、「内容の妥当性をプロの目から検証してください」という話だったという。
林:今回の本にも書いたんですけれど、医学の世界では、効かない薬や効かない治療法にはすごく厳しい。そして患者も、効かないものを処方されることはまず望みませんよね。
それなのに、「医学」が「健康づくり」になった途端、すべてがふわっとしだすんですよ。健康づくりの企画では、エビデンスのないものが、まるで文化祭の出し物のように「ジャストアイディア」で決まってしまうことが多い。
きちんとデータを見てみると、効果がないだけでなく、逆に良かれと思ったことが悪影響を与えてしまうこともある。健康の分野も、ちゃんと科学しようよと、西内さんと常日頃から言っているので、そのふわっとした空気に一石を投じたかったっていうのはありますね。
西内:そういう「ふわっとした健康術」にはいくつかのパターンがあると思うんですよ。「私の経験上〇〇だった」と言うだけのパターンもあれば、「○○が足りないから△△を摂ればいい」というメカニズムとして一見正しそうだけどそれ本当? みたいなものなど。
そういう話に対して、「髪の毛食べても髪は生えてこないだろう」っていうツッコミをしたことがあるんですけれど(笑)。
膝が悪い→膝の軟骨はコラーゲンでできている→だからとにかくコラーゲンをガンガン飲みさえすれば膝は治るのである――ってほんと? みたいな。こういうメカニズム的には正しそうだけど、エビデンス上それほど明確に支持されてるわけではない話は、いろんなところで出ていて、みんななぜか信用しきってしまっている気がしますね。
林:そうですね。特に食事関連の話は多いですね。でも、サプリメントよりも基本的には食事で栄養を摂るべきだと思います。
サプリメントは、人々の「健康になりたい」という気持ちをうまく突いているなと思います。本にも書きましたが、とにかく誰よりも健康になりたいと思っている人は、何かをしていないと気持ちが悪いから、サプリメントを摂るのが最も手っ取り早いんですよね。だから、多くの人が「いい」と言っていると買ってしまい、粗悪なものに騙される人も多いんです。
西内:そういう気持ち突かれないよう気をつけたいところですね。
【次回に続く】
パブリックヘルスストラテジスト・公衆衛生学者(行動科学・ヘルスコミュニケーション・社会疫学)、Down to Earth 株式会社代表取締役、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任准教授、東京大学・東京医科歯科大学非常勤講師
1979年千葉県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒業、2006年ボストン大学教育大学院修士課程修了、2012年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程を経て、2016年同大学院社会行動科学部にて博士号取得(Doctor of Science:科学博士・同学部の博士号取得は日本人女性初)。専門は、行動科学・ヘルスコミュニケーション、および社会疫学。一人でも多くの人が与えられた寿命を幸せに全うできる社会を作ることが使命。様々な国で健康づくりに携わる中で、多くの人たちが、健康法は知っていても習慣づける方法を知らないため、やめたい悪習慣をたちきり、身につけたい健康法を実践することができないことを痛感する。長きにわたって頼りになる「健康習慣の身につけ方」を科学的に説いた日本人向けの本を書きたいと思い、『健康になる技術 大全」を執筆した。
2007年から2020年まで、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして本社ニューヨーク・ロンドン・東京にて勤務。ニューヨークでの勤務中に博士号を取得。東京ではパブリックヘルス部門を立ち上げ、マッキャンパブリックヘルス・アジアパシフィックディレクターとして勤務後、独立。2020年、Down to Earth(ダウン トゥー アース)株式会社を設立。社名は英語で「実践的な、親しみやすい」という意味で、学問と実践の世界を繋ぐことを意図している。現在は、国際機関や国、自治体、企業などに対し、健康に関する戦略・事業開発、コンサルティングを行い、学術研究なども行っている。加えて、個人の行動変容をサポートするためのライフスタイルブランドの設立準備中。2018年、アメリカのジョン・ロックフェラー3世が設立したアジアソサエティ(本部・ニューヨーク)が選ぶ、アジア太平洋地域のヤングリーダー“Asia 21 Young Leaders”に選出。また、2020年、アメリカのアイゼンハワー元大統領によるアイゼンハワー財団(本部・フィラデルフィア)が手がける、世界の女性リーダー“Global Women’s Leadership Fellow”に唯一の日本人として選ばれる。両組織において、現在もフェローとして国際的な活動を続ける。
『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館)をプロデュース。著書に、『健康になる技術 大全」(ダイヤモンド社)、『それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと』(あさ出版)がある。
https://hanahayashi.com/