前回に続き、山種証券創業者の山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)インタビューだ。話の中に出てくる人物たちが、どれも興味深い。
日本画家である川合玉堂は山崎と親交が深く、山種美術館(東京都渋谷区)にも71点の作品が収蔵されている。インタビューでは、奥多摩の川合邸に足しげく通ったエピソードが語られている。山崎は川合が亡くなる2~3年前に「私の心の戒めになるようなものを書いてください」と頼んだところ、「信は万事の本を為す」との書をもらい受けたという。この言葉は今も、ヤマタネグループの経営理念となっている。
相場では、若い頃には失敗を重ねたが、算盤(そろばん)を土台にした投資に徹して以降は、失敗しなくなったという。米相場では高値の八分目で売ることを信条としてきたといい、株でも八分目で売ることに徹したというのだ。
逆に、欲張って八分目を忘れて前進し、その揚げ句、証券市場が嫌になってゴルフ屋に転向した「大番君」という人物も登場する。大番というのは、合同証券社長だった佐藤和三郎のことだろう。獅子文六の小説『大番』のモデルとなった昭和の相場師だ。1958年に相場師を引退し、不動産業・ゴルフ場経営に転じた。
ところで、インタビューが掲載された64年2月というのは、岩戸景気後の不況で、株式市場が低迷していた時期。64年1月20日には、株価維持のために民間企業主導で株式買い支えのための証券会社、日本共同証券が設立された。まさにホットな話題として、山崎はこの話題に触れている。「証券市場、資本市場は、もとより自由が建前である。しかし、資本市場の必要性と日本経済の弱体性という点から考え合わせてみれば、やはり、今度のような共同証券設立ということも、やむにやまれぬことだったのではないか」と語りつつ、「株はまず大底が確認されたとみていい」と楽観的な観測を披露する。
ところが64年10月に東京オリンピックが終幕すると、64年後半から65年にかけて日本経済は低迷し、サンウエーブ工業や日本特殊鋼、山陽特殊製鋼が倒産する昭和40年不況に突入。証券会社も軒並み赤字となり、65年5月に山一證券の救済のために日本銀行法25条による緊急貸し出し(日銀特融)が発動された。これにより日本経済は高度成長路線に戻る。「大局的にみて、日本経済は成長する」という山崎の見立ては正しかったが、インタビュー時点が大底という予測は外れている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
一番大事なものは信用
真は万事の本を為す
私も若い頃は、心が燃えていたから、先人がやっていることで自分にできないことはないと思っていた。
勉強もしたいし、仕事もやってみたいと頑張った。
しかし、幸か不幸か、やはり10年間というものは相場では失敗を重ねた。せっかくもらう賞与も投げ、あるいはためた給料もふいにした。築いては崩し、築いては崩したということだった。
それでも、私は関東大震災を契機として独立し、山崎種二として深川で回米問屋を始めた。だが30歳前の相場では、元も子もなくした。女房をもらいたてには、借金で責められたこともあった。しかし、独立してからは、責任を感ずるから、そう無謀なことはしない。
算盤(そろばん)を土台にした投資に徹した。それからは、ほとんど失敗しなかった。算盤生活、算盤投資、算盤相場に徹した。これが私の信条になっている。
従って、相手が出たときにこちらも初めて出る。決してこっちからやらない。これは正しい行き方だと思う。
投資もその通りでいい。株式が暴落してきたら買う。株でもうかったからといって、自分から買いあおるようなことをしない。算盤に生きるということに徹すれば、いわゆる採算に合うものを中心にして仕事をしていくようになる。
仕事をする場合に、大切なのは金の運用だ。運用の力は無限だが、社会的信用という面で、一つ失敗したら、算盤も何も全部投げ出さなければならない。
そこで私の信条は、手形を発行しないということだ。同時に、商売の面でも、自分の財産で処理できる範囲でやることにしている。
経済人にとって、一番大事なものは信用である。私は川合玉堂先生に、私の心の戒めになるようなものを書いてくださいとお願いしたことがある。ちょうど亡くなる2~3年前だったが、先生が「おまえにはこれがいいだろう」と言って「信は万事の本を為す」と書いてくれた。
おまえもこれだけのことはやってきているだろう、また、この心掛けを生涯守れという意味で、この書を、私に与えてくれたのだと思う。