山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)は群馬県北甘楽郡(現高崎市)に生まれ、16歳で上京、叔父の山崎繁次郎が営む東京・深川の回米問屋、山繁商店に入社した。山繁商店では営業支配人として1918年の米騒動を体験するなどで、相場観を磨いた。24年に独立し、山崎種二商店(現ヤマタネ)を創業。米相場で利益を上げると、株式相場にも進出し、 44年には証券会社4社を吸収合併して山崎証券(後の山種証券)を設立した。
山崎は、戦前は不況を見越して売りで勝負、戦後は「買いの山種」として成功を収め、巨額の利益を上げる。その独特な相場観や経営方針と共に“相場の神様”として名をはせた。山種証券は中堅の独立系証券会社ながら、兜町で独自の存在感を放ってきたが、バブル崩壊後は業績が悪化、金融再編の中で合併を繰り返し、現在はSMBC日興証券の系譜に連なる。
今回は「ダイヤモンド」64年2月24日号に掲載された山崎のインタビューだ。長い記事なので2回に分けて紹介するが、前半は「勉強」がテーマである。相場師として常日頃から勉強は欠かさず、「新聞と経済雑誌を一番信じている」と語り、特に会社企業の見方については、ダイヤモンド社創業者の石山賢吉を師と仰いでいるという。
また、30代のときに故郷を流れる鏑川に橋を架けたエピソードを披露している。山崎は美術品のコレクターで、近現代の日本画約1800点を所蔵する山種美術館(東京都渋谷区)を設立したことでも知られるが、戦時中、美術品のコレクションを故郷に“疎開”できたのは、この橋のおかげだったという。「人のためはわがため」という言葉を身に染みて味わったと語っている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
若い頃の勉強法は
新聞と経済雑誌を読むこと
私の孫が今年成人式を迎えるので、成人の日に、私とその孫と2人で、NHKの“夜の随想”で、10分間ほど放送した。
そのときの放送でも話したように、私は、山の中の百姓家に生まれた。
明治時代の農家の生活というものは、日本人の生活としては、最低だった。
そういう最低の生活の中から出てきたわけだから、なにをやっても分がいい。自分が若いとき高いところにいたとすると、そこから転がり落ちてしまう恐れもあるが、一番低いところから這い出したのだから、そういう苦労がない。
私は裸で東京に出てきて、叔父のところでやっかいになった。その叔父は山崎繁次郎といい、米問屋をやっていた。当時、「時事新報」が全国の金満家というのを3年にいっぺんか、5年にいっぺん発表した。
そのときにこの人は50万円の金満家として出たことがある。渋沢栄一さんの米穀輸送をやっていた。
つまり、“実業家の神様”の洗礼を受けた人だ。