山崎種二・山種証券会長
 山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)は群馬県北甘楽郡(現高崎市)に生まれ、16歳で上京、回米問屋、山繁商店に入る。16年後に独立、米穀問屋、山崎種二商店(現ヤマタネ)を設立すると、その後は米相場から株式へ進出し、莫大な財産を築いた。その相場師としての生涯は、城山三郎の小説『百戦百勝 働き一両・考え五両』のモデルにもなった。山種証券(現SMBC日興証券)のほか、米の卸売業や倉庫業などの事業で成功すると、47歳のときに山崎学園(現富士見中学高等学校)を創立。教育者としての側面も持つ。さらに山種美術館を開館するなど、文化事業も支援した。

 1918(大正7)年の米騒動の際は、山崎は山繁商店の営業支配人として事件の渦中にあった。今回のインタビューは「週刊ダイヤモンド」67年9月11日号に掲載されたもの。山崎が“生”で体験した米騒動の一部始終を語っている。

 歴史の教科書でご存じの米騒動は、18年7月に富山県魚津町(現魚津市)の主婦らが起こした、米の安売りを求める運動が一気に全国規模に広がった事件。当時、第一次世界大戦による好景気の一方で、米をはじめとして物価が上昇。16年7月には1石13円11銭だった米価は、17年7月には21円93銭、18年7月には30円59銭に暴騰した。そこで、約200人の女性たちが団結し、町の米穀店や資産家の家に押し掛けて「米を安く売れ」「他県に運び出すな」などと直談判した。この時代には珍しかった女性たちの直接行動が全国紙で報じられると、生活に不満を持つ庶民の間で同様の運動が1道3府32県に広がり、約70万人の人々を巻き込んで9月まで続いた。米穀店を襲撃したり焼き打ちしたりする事件も相次ぎ、政府は軍隊や警察を出動させて騒動を鎮めるしかなかった。

 当時の寺内正毅内閣は、騒動の責任を取って総辞職。後を継いだ立憲政友会総裁の原敬は、陸、海軍大臣以外の閣僚は全て政党から起用した。日本初の本格的な「政党内閣」が誕生したのは、民衆の反発を抑える目的から、それまでの元老や軍人による政治に終止符を打つ必要があったためだ。

 山崎も「米騒動は、国の為政者がひっくり返った事件ですから、大変なものでしたよ」と記事中で語っている。まさに日本史に刻まれるべき重大事件だったのである。(文中敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

入院中の病院の窓に投石
米騒動が始まった

週刊ダイヤモンド1967年9月11日号1967年9月11日号より

 1918(大正7)年の米騒動のとき、私は築地の林病院に入院していました。騒動が始まると、病院の窓ガラスに石がしきりに投げ込まれる。なにも病院などにそんなことをする必要はないんですが、時の勢いというか、群集心理というか、所嫌わず、乱暴をやってみたいんですね。

 そうしたことが始まりでした。何事かと思って、びっくりして聞いてみると、米騒動だというんです。今でも忘れませんが、これは大変だというので、1週間足らずで、私は病院生活を切り上げたんです。