相続は、一般的な感覚とはかけ離れた運用も多々あるのが現実だ。相続の一定割合は「相続紛争」(いわゆる“争族”)になっていて、相続人同士がもめているケースは相当数存在する。これまでブラックボックスだった「相続紛争の戦い方」について、300件の争族を担当してきた弁護士が解説する。(弁護士 依田渓一/執筆協力 経堂マリア)
生き別れた父親に借金500万円が見つかった
【本当にあった相続紛争物語】
「お父さん」は、酒井直美(仮名)にとって、古びた写真に写る見知らぬ男性に過ぎなかった。物心ついたころから直美の親は母一人であり、父親のいない生活が当たり前だったから、写真の男性に会いたいと思ったこともない。
直美は結婚後も実家の近くに住み、3年前にがんと診断された母を懸命に看病した。死の床で、母は初めて父のことを語った。直美がまだよちよち歩きの頃に家を出ていき、ほどなくして離婚届が母の元に送られてきたこと、再婚相手とも別れ、今は狭いアパートに一人で暮らしていること、直美に会いたがっていること――。
離婚後の母と父は完全に没交渉だと思っていたから、母が父の近況を知っていたことに心底驚いた。同時に、無性に腹が立つ。母と自分を捨てて出て行った男が、今さらどの面を下げて会いたいなどとほざいているのか。寂しいのは自業自得ではないか。
「考えておくね――」。直美は、曖昧な表情でそう答えるのが精いっぱいだった。
母を見送り、一周忌が過ぎた頃のこと。直美の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。「警察署の者ですが、酒井直美さんでしょうか?」。父の死を知らせる電話であった。
霊安室に横たわる男は不健康に痩せた老人で、古びた写真に写る若かりし頃の面影は少しもなかった。直美の心は、「無」だった。悲しみもなければ怒りもない、まっさらな無。孤独死というあまりに寂しい最期を遂げた父を恨む気持ちは、もうなかった。
やるべきことを粛々と済ませ、簡素な葬儀も行った。年金でギリギリの生活をしていたという父に財産などあるわけもなく、相続手続きは何もしなかった。遺品の整理は業者に任せた。
そして半年が過ぎたある日のこと、直美のもとに一通の督促状が届いた。なんと父は生前、消費者金融から500万円もの借り入れをしており、相続人である直美がそれを支払えというのだ。
まさに青天の霹靂(へきれき)、目の前が真っ暗になった。慌ててインターネットで調べると、借金を相続したくない場合は「相続放棄」という制度があるとわかった。ところが、「相続放棄は相続発生から3カ月以内にしなければならない」という。その期限はとうに過ぎていた。
死んでまで苦労をかけてくるあの男…。いったいどこまで迷惑をかければ気が済むというの!? やり場のない怒りが直美を襲う。弁護士に相談しても結論は変わらないのだろうか――。
【相続の疑問点】
直美は父の借金500万円を負うことになってしまうのか。そうならない方法はないだろうか?
【ヒント】
相続放棄は相続人が好きなタイミングでできるわけではなく、民法915条1項で「自己のために相続の開始があったことを知った時」から3カ月以内にしなければならないと定められている。そして、判例上、「自己のために相続の開始があったことを知った時」とは、(イ)相続人が被相続人の死亡を知り、かつ(ロ)自分が相続人になったことを知ったときのことであると解釈されている[注1]。
つまり相続放棄は、(イ)相続人が被相続人の死亡を知り、かつ(ロ)自分が相続人になったことを知ったときから3カ月以内に行わなければならないのだ。
この3カ月は熟慮期間と呼ばれ、直美がネットで見つけたのはこれに関する情報だったと思われる。直美が被相続人である父の死を知ったのは6カ月前のことであり〈(イ)〉、その際に父の相続人となったことを認識したといえるから、自分が相続人になったことを知ったときからも6カ月経過している〈(ロ)〉。これらを踏まえると、直美はもう相続放棄できず、父が残した500万円の借金を負うしかなさそうにも思える。
しかし、直美にはまだ、相続放棄できる可能性が残されているのだ。いったい、どういうことだろうか。