ChatGPTなどの新しいAI、地震などの自然災害、ウクライナへの軍事侵攻……日々伝えられる暗く、目まぐるしいニュースに「これから10年後、自分の人生はどうなるのか」と漠然とした不安を覚える人は多いはず。しかし、そうした不安について考える暇もなく、未来が日常にどんどん押し寄せてくるのが今の私たちを取り巻く時代だ。
『「これから何が起こるのか」を知るための教養 SF超入門』著者の冬木糸一さんは、この状況を「現実はSF化した」と表現し、すべての人にSFが必要だと述べている。
今回は、本書の発売を記念し、特別インタビューを実施。冬木氏に「SFの魅力」について教えてもらった。(取材・構成/藤田美菜子)
SFの魅力は「タイトル」に集約される
――冬木さんはこれまでに2000冊以上のSF小説を読んでこられたそうですね。そもそもSFにハマったきっかけとは何だったのでしょうか?
冬木糸一(以下、冬木):SFファンには、小中学生のころからハヤカワの『SFマガジン』を読んでいたりする人が多いのですが、僕は大学生くらいからSFにハマったので、デビューは結構遅いんです。
それ以前は司馬遼太郎や宮城谷昌光などの歴史小説、それに『指輪物語』などのファンタジーを好んで読んでいました。高校生になってからは、森博嗣や清涼院流水といった講談社系のミステリーもよく読んでいましたね。けれど、SFにはほとんど触れる機会がありませんでした。ライトノベルもよく読んでいたので読んでいなかったわけではないんですが、特にSFだと意識はしていなかったのだと思います。
そんな僕が、明確にSFだと意識して読んだ初めての一冊が、神林長平の『戦闘妖精・雪風』です。大学生協のブックガイドで見かけたのがきっかけでした。特におすすめ本としてプッシュされていたわけでもなく、表紙とタイトルと簡単な概要が紹介されていた程度だったのですが、なんと言ってもタイトルがカッコよかった。「戦闘妖精」という言葉の響きに、無機質な戦闘機のビジュアルが組み合わされた表紙がとびきりクールで「なんだこれ?」と思って手に取ったのが最初です。以来、『戦闘妖精・雪風』は僕の原点になっていますね。
タイトルがカッコいいというのは、SFのわかりやすい美点だと思います。ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』にしても、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』にしても、タイトルからして普通ではないというか、「現実ではありえない」ことが書かれているという雰囲気が伝わってくる。その中から「なんだこれ?」と心に引っ掛かったものを手に取ってみるというのは、実に正しいSFへの入り方だと思います。
SFは「実社会の問題」に向き合うヒントをくれる
――『SF超入門』は、「フィクション」であるSFが直接的または間接的に示唆している「現実の問題」を取り出して、そこに光を当てているのが特徴です。冬木さんは昔から、こうしたSFの読み方をされてきたのですか?
冬木:大学では国際経済を専攻していて、社会の諸問題を扱ったノンフィクションや新書を資料として読む機会が多かったんです。そのころSFを読み始めたということもあって、自然とSFに内包されている現実的なテーマに目が向くようになりました。
たとえば『戦闘妖精・雪風』の場合、大きなテーマは「異星体との戦争」ですが、このテーマは「そもそも戦闘機にとって人間が足かせになる時代に、有人機は必要なのか」「無人機が敵と戦っているとき、人間の役割は一体どこにあるのか」ひいては「人間は何のために存在しているのか」といった問いにつながっていきます。
これらの問いは、いままさに話題になっているChatGPT(人間のように自然な会話ができるAIチャットボット)などの事象にもリンクするでしょう。
おそらく、SFを読んで「よし、AIについて勉強しよう!」と考える人は少ないと思います。でも、現実世界に暮らしていればさまざまなニュースが入ってくるし、近年のニュースはどれも多かれ少なかれSF的です。たとえばウクライナ戦争における無人ドローン攻撃や、温暖化によって各地で多発している自然災害などもそうですよね。
このように、実社会で問題が発生したときに、SFで読んだことが記憶によみがえってくるというシーンは多々あります。東日本大震災が発生したときも、小松左京の『日本沈没』が「予言的な小説」としてあちこちで話題になっていました。SFを通じてインストールされていた視点や考え方が、現実的な問題に向き合うときのヒントになるのです。
SFは視野を広げるための「レーザーポインター」
――改めて、いまビジネスパーソンがSFを読むアドバンテージはどこにあると思いますか?
冬木:僕はあらゆるフィクション、ないし「物語」は、「ポインター」のような機能を果たすことがあると思っています。
ノンフィクションの場合、自分が興味のあるテーマの本を読みますよね。会話力をつけたいなら「聞く技術」みたいな本を読むだろうし、子どもができたばかりの親御さんなら子育ての本を読むでしょう。
でも物語の場合、そこに何が描かれているかは、基本的には読んでみるまでわかりません。たとえて言うなら、自分の正面に一個のホワイトボードがあると思っていたら、実は左上にも右上にも別のホワイトボードがあった……みたいなイメージです。そんな、これまで見えていなかったホワイトボードにレーザーポインターの光があたって、読者の意識を向けさせてくれるのが物語の役割のひとつなのです。
とりわけSFの場合は、ポインターの「振り幅が大きい」のが特徴です。場合によっては1000年先、1万年先といった「遠く」まで飛んでいきますし、ほぼ「全方位」をカバーしているので、首をグルグル回すことになります。
『SF超入門』では、紹介した作品を「SF沼の地図」という4象限マトリクスにマッピングしました。
数多あるSFのなかには、目の前の社会問題を扱う作品もあれば、より大きな枠で倫理や価値観を問う作品もあります。はたまた、科学的知識や技術の描写に焦点を当てた作品もあれば、思考実験の色合いが強い作品もある。そんなふうに、あちこちの方角に視線を誘導し、意識の外にある世界に気づかせてくれるのがSFの醍醐味です。
ビジネスパーソンがSFを読む意義も、そこにあるのではないでしょうか。いまの時代、目の前の仕事をいつまで続けることができるのか、誰にもわかりません。10年後にはかなりの数の職種がAIに代替されるだろうという議論は、ChatGPTの登場によっていよいよ現実味を帯びています。
そんな時代の生き残り策を考えるにあたって、「視野の広さ」は圧倒的に重要になってきます。もはや、目の前の仕事を一生懸命やっていれば安泰というわけにはいきません。だからこそ、自分が目を向けようと思ってもみなかった分野に誘ってくれるツールとして、SFが役立つというわけです。
SFとフィクションの「分断」を埋めよう
――冬木さんの書評ブログ「基本読書」は、SFとサイエンス・ノンフィクションの両方を扱っているのが特徴です。これは、どういったコンセプトで始められたのですか?
冬木:もともとブログを始めたのは、神林長平の『膚の下』というSFを読んだことがきっかけです。「書き残すことの意味」をテーマにした物語で、これを読んだあとにすぐ、自分も何かを書き残さねば!と思い、ブログを開設して読んだ本の感想を書き始めたのが最初ですね。
先ほどもお話ししたように、僕自身はSFとノンフィクションを地続きで読んでいます。しかし、ブログを続けるうちに感じるようになったのは、どうやら世の中では「SFを読む人」と「ノンフィクションを読む人」の間に分断があるらしい、ということです。
あくまで個人的に経験した限りですが、僕のSF書評を読んでくれている人に出会うと「ノンフィクションの書評も書くんですか?」と驚かれるし、ノンフィクションの書評を読んでくれている人に出会うと「SFもやるんですか?」と言われることが多い。どちらのジャンルの人も、もう一方のジャンルについては「眼中にない」といった感じなのです。
これは、かなりもったいない話なのではないでしょうか。先ほどの「物語はレーザーポインター理論」に戻ると、自分の意識の外側にある世界に目を向けさせてくれるのが、ポインターとしてのSFの役割です。意識が向くだけでは気づきしか得られません。ですが、その先にノンフィクションがあれば、そのホワイトボードの周辺がよく見えるようになる。
僕が本を読むペースは、大体月20冊くらいですが、なんのフックもなしにそれだけの本を読むのはかなり大変です。自分がもともと持っている興味の幅というものは、思いのほか狭い。ノンフィクションからノンフィクションへと、芋づる式に読んでいくという手もありますが、それだけでは限界がある。
その点、SF小説を読むと、宇宙開発からジェンダーの問題まで、かなりかけ離れた分野にも意識が向いて、それがたくさんの「興味の種」になります。さらに、ノンフィクションにも触れることでその種が育つと、予測のつかない時代を生きるのに不可欠な「視野」が広がっていく。僕自身は、そんなイメージでSFとノンフィクションの両方を活用してきましたし、だからこそブログではSFとノンフィクションが同程度の割合で取り上げてきた。そこから得たものも大きかったと実感しています。