ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」は4部作で、全曲上演に4夜、計15時間以上かかる超大作である。現在流通している録音・録画ソフトの大半はライブのCD、DVD、Blu-rayで、サウンドはホールの特質に左右され、客席で聴くバランスに寄せている。ライブの記録だから当然のことだ。しかし、アナログLP時代の代表作であるショルティ指揮ウィーン・フィルの「指環」全曲は、現代のライブ録音とは全く違う考え方で収録されている。この約60年前のスタジオ録音が、CDを超えるハイレゾの規格でリマスタリングされた。昨年から順次発売され、いよいよ最後の楽劇「神々の黄昏」がSACDハイブリッド盤として6月に発売される(文中敬称略)。(コラムニスト 坪井賢一)
レコーディングエンジニアの引退で
今回のリマスタリングが最後に?
リヒャルト・ワーグナー(1813~83)が作曲した「ニーベルングの指環」4部作は、序夜「ラインの黄金」、第1夜「ヴァルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々の黄昏」で構成され、上演には4日間で計15時間かかる。
この壮大な作品を全曲録音して発売する計画を最初に立てたのがイギリスのレコード会社、デッカのプロデューサー、ジョン・カルショー(1924~80)で、1950年代半ばのことだった。
オーケストラはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、歌手陣はバイロイトで活躍中の超一流の顔ぶれをそろえた。例えばビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ)、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)、ハンス・ホッター(ヴォータン)など。最も重要な指揮者には、ハンガリー出身のゲオルク・ショルティ(1912~97)を充てた。
カルショーのデッカ・チームが最初に録音したのは序夜「ラインの黄金」で、1958年のことだった。時期を見てわかるように、ステレオ録音開始の初期である。
今でこそ、左右2チャンネルのステレオ録音と再生はごく一般的で、ほぼ全員がイヤホン型ステレオ・ヘッドホンで聴いているが、50年代はモノラル録音・再生の全盛期なので、スピーカー1本のプレーヤーや、モノラルのラジオ放送の単調で平面的な音を聴いていた。
ステレオ録音と再生の技術が誕生し、普及を始めたのが1958年前後のこと。「ラインの黄金」の録音やレコード発売は、そうしたイノベーションの波に乗っていたのだ。ステレオで録音されたオーケストラは3次元空間を手に入れ、楽器の位置や強弱が立体的に再現できるようになった。
そうして、デッカの「ニーベルングの指環」の録音は、以下のように進んだ。4部作の順番と録音順は異なっている(カッコ内はこの録音の演奏時間)。
「ラインの黄金」1958年9月、10月(2時間25分35秒)
「ヴァルキューレ」1965年10月、11月(3時間48分45秒)
「ジークフリート」1962年5月、10月(3時間56分50秒)
「神々の黄昏」1964年5月、6月、10月、11月(4時間24分25秒)
どうして「ヴァルキューレ」の録音が後ろにずれているかというと、実はカルショーとショルティのチームは順調に録音を進めていたわけはない。デッカの経営陣はハンス・クナッパーツブッシュ(1888~1965)やエーリヒ・ラインスドルフ(1912~93)の指揮を想定していたという。カルショーは駆け出しで、ショルティはピアニストとして有名でも、指揮者のキャリアは10年もなかったのだそうだ。
しかし、「ラインの黄金」の売れ行きはよく、ロングセラーとなったことで経営陣はカルショーとショルティ組に「ヴァルキューレ」録音のゴーサインを出し、ようやく全曲盤が出来上がったというわけだ(『ショルティ』自伝より)。
このマスター音源は2トラックのオープンリール・テープ38本に収まり、順次LPレコードとして発売された。全曲がそろうとLPレコードセットでも発売された。60年代後半、筆者は中学生だった。高校生でも大学生でも高価で買えなかったが、高校の音楽教師が音楽室で一部を聴かせてくれたと記憶している。
80年前後、働きだしてからこのLPレコードセットを当時の発売元、東芝EMI盤で購入した。その後85年にCD化されたものも購入した。
さらに2009年、12年、18年にリマスターされてBlu-ray AudioやSACDでも発売されたらしいが、筆者は入手していない。
今回の22年リマスタリングは、きっと最後になるのではなかろうか? 1950年代から60年代のオリジナル・レコーディングのエンジニアがいなくなっていくからだ。