世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解説する。

マルクスの理論では、上部構造(イデオロギー)は下部構造(経済的な土台)によって規定されるとされた。しかし、ウェーバーは、プロテスタント倫理がめぐりめぐって、資本主義の経営、生産、労働の特殊な精神的傾向(エートス)に影響したと考えたのだ──。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

禁欲主義が欲望を求める資本主義を達成!?

 ウェーバーは本書の「信仰と社会層分化」の項目で、「近代的企業における資本所有や起業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象」と説いています。

 なにやら、わかりにくい表現ですが、簡単にまとめると、プロテスタントのキリスト教の信仰を持つ人々が、どういうわけか営利活動に優れていてどんどん儲かるという話。

 一方、カトリック信徒の場合はそのような傾向がみられないとされます。これはなぜなのでしょうか。

 ここでウェーバーは一つの「仮説」をたてます。「信仰と営利活動」というまったく逆のものが、歴史の中で結びついた理由があるのではないかというのです。

 この仮説をさらにすすめ、「資本主義の精神」という概念を示します。そこには、「なんと営利的行為が一個の倫理的義務という色彩をもっている」のです(「職業義務の観念」)。

「経済的合理主義」と呼ばれるものには2種類あります。「与えられた現実に適応した行動を取る」という場合と、「使命としての職業」と考える場合です。

 後者は労働が超越者(神)の意志として人間に課せられていると信じる立場から生じる合理性です。

 カルヴィニズムなど禁欲的プロテスタンティズムの諸宗派の倫理思想を信奉する者は、職業労働を神から課せられた使命と考えて、これを組織的合理的に行い、規律正しく労働を行います。

 怠惰、気まぐれ、安逸、享楽、おごりなどの、人間の非合理的衝動や欲求をきびしく統制するという生活態度(エートス)をもっているというわけです。

 なぜそうなったのでしょうか。

ド真面目すぎて節約するから資本が蓄積する?

 宗教改革を推進したルターは「天職(ベルーフ)」という概念を提唱しました。

 カトリックでは世俗を離れる修道士の生活が重視されましたが、ルターは世俗的な労働は神に喜ばれると考えました。

 さらに、カルヴァンは「二重予定説」を唱えました。

「神はその栄光を顕さんとして、みずからの決断によりある人々……を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた」(「ウェストミンスター信仰告白」、同書より)。

 これは人間の自由意志による善行によって救いがもたらされるのではなく、絶対的な神がすでに誰が救済されるのかを決定しているという説です。

 私たちがそんな説明を受けたら「どうせ決まってるならヤケクソだ」というような気分になるかもしれません。しかし、プロテスタントの人々はそうは考えなかったのです。

 たとえれば、受験の結果が知らされていないような状態ですから、信徒たちは、自分は選ばれているのだろうか、そうではないのかと不安な状態にさらされます。

 そこで、彼らは、どうしたら自分が選ばれているという確信が得られるだろうかと思案したのでした。

 その結果、神意によって与えられた自己の職業を、神が課した「天職(ベルーフ)」とすること、そしてこれがこの世の「神の栄光」を増すことでもあると信じました。

 職業において使命を達成し、成功し、さらに節約して禁欲する。これを行ったから救われるのではなく、これを行うことで「自分が救われているという確信が得られる」というわけなのです。

 人々は「神の道具」になりきって、神から課せられた職業的使命の達成に従事します。

 起業家の利益追求や効率を上げるための労働者に対する過酷な扱いも、禁欲的合理主義のエートスが現れたものと解釈されます。

 世俗を否定した宗教による熱狂的な生活態度が、逆に世俗的な利益追求の資本主義を生み出すというすごい説なのです。