ニホンザル珍重

 「猿の肉はとてもとても、たとえようのない程の美味だ。また、猿の頭の黒焼きは薬として珍重されていたものだった」。これは、昭和51年に亡くなった十和田の木村金吾氏の証言である。石川県の山村などでは「秋猿は嫁に食わすな」というらしい。近年まで非常に評価されていたことがわかる。

 美味ゆえか価格もよかったようだ。秋田県仙北の寺子屋のソロバンの稽古の教材で、「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」というのが残っていた。全体を利用するが、食用・薬用でない毛皮はそう高くなかった。雪深い新潟県魚沼での明治25年の値段は、イタチ50厘、テン500厘、キツネ2000厘(=2円)、サル800厘であった。

ニホンザル
ニホンザル

 全世界のサル類の分布北限の地である日本には、ニホンザル1種のみがいるが、古来食料として利用されていたことは、縄文時代の遺跡から、全国各地で猿の骨が出土することでわかる。

 その食習慣はすたれることがなく、近世初頭刊『宜禁本草集要歌』に、「猿肉は平、諸々の風労病瘵や久しきふるい、冬ばかりくえ。さるはよく中風半身なへしびれ舌もむくみて物をいはぬに。さるこそは五疳の薬又てんかん常に食して奇特成けり」とあるほどで、滋養たっぷりの食肉とみなされていたことがわかる。

 『嬉遊笑賢』によれば「類柑子に、昔四谷の宿次に猟人の市をたて、猪・鹿・羚羊・狢・兎のたぐひをとりさかして商へる中に、猿を塩づけにし、いくつもいくつも引上て其さま、魚鳥をあつかへる様なり云々いへり」というくだりもあり、かなりの数が流通していたこともいえよう。猿は意外と一般的な獣肉だったらしい。

神の使い

 一方で、猿は霊力を持ち、信仰の対象でもある。山王権現(日吉神社)の使者であり、中国からの庚申信仰も結びついて庚申塔などに三猿(見ざる・言わざる・聞かざるの三疋猿)の象が刻まれている。

 日吉神社の氏子は、猿に害を加えることを忌んだ。群れで出現すると異様な兆しと考えられたが、ニホンザルは群れで行動するから、常にある緊張を与えていたとみなすべきだろう。山仕事をする、木こりや猟師は、山中で「さる」という語を発するのをタブーとし、タカ・エテ・ヤエン・キャツなどと呼び替えていた。

猿は馬の守り

日光東照宮の三猿像
日光東照宮の三猿像

 日光東照宮の三猿像は有名だが、これは神厩につけられている。猿は馬の守護神であり、中世では武家の厩(うまや)につながれる、という風習があった。猿が馬の口綱をとっている駒引猿の絵馬や絵札も多い。大正時代くらいまでは、厩舎の一隅に猿の頭骨を箱に収めて置くという習慣が、馬の産地に認められた。

 猿曵(猿廻し)という職業は鎌倉時代には成立していた。江戸では三谷橋の付近に猿曵の家が12軒あり、正月・5月・9月には城中の厩の祈祷に行き、諸大名の屋敷の厩にも出かけていた。近国の猿曵も、江戸に出てきた際には、この猿曵の12軒に宿をとり、そこから市中に仕事に出かけたという。