かつてのペスト、梅毒、天然痘、コレラ、スペイン風邪、etc――。ウイルスは社会の規範や慣習を変え、皮肉にも技術進歩を促す。今回の新型コロナウイルスもそうだ。その最たるものがテレワークであり、それをサポートするオンライン会議サービスの普及にほかならない。

 その結果、取引コスト、すなわちコミュニケーションコストは格段に低下した。ただし、その代償として、コミュニケーションの質と量が減少した、組織の一体感や社内のインフォーマルネットワークが希薄化した、勤怠管理が難しくなったなど、デメリットを指摘する声も少なくない。しかし、この新しいコミュニケーションスタイルは間違いなく社会の一部として組み込まれ、おそらく不可逆であろう。

 だからこそアフターコロナには、リアルとオンラインの使い分け、これまで以上に賢い使い方などが要求されていく。言わば「コミュニケーションの再創造(リインベンション)」である。

 この取り組みには、テレワーク同様、従来のコミュニケーション観への異議申し立てが不可欠となる。ちなみに経団連が毎年実施している「新卒採用に関するアンケート調査」では、企業が新卒社員に求める能力としてコミュニケーション能力が16年連続(2003~2018年度)で第1位であった。ただし、ここで言うコミュニケーション能力とは、空気を読む、和を乱さない、組織ピラミッドに従うといった、雇用主の論理に基づくものであり、そこには被雇用者を型にはめようという意図がある。

 しかしながら、離職率が暗に示しているように、会社と従業員の関係は様変わりしている。雇用主側は、従業員に能力を求めるだけでなく、みずからのマインドセットを改める必要があるだろう。これは時代の要請にほかならない。とはいえ、こうした意識を持って、日々のコミュニケーションに努めているマネジャーはどれほどいるだろうか。

 関連して、「さん付け運動」があらためて注目されているようだが、やがて「くん付け」に変わっていくという歴史があったことを忘れてはならない。もちろん、長幼の序や敬語を否定する必要はない。しかし、リーダーの心得を記した『貞観政要(じょうがんせいよう)』に書かれているように、部下や年下の意見に積極的に耳を傾け、みずからの言動を省みるマネジメントスタイル、プロフェッショナル組織における「課題(イシュー)の前では皆平等」といった価値観が望ましい。

 自分も相手も大切にする自己表現の「アサーション」が再評価されているように、そのためにはコミュニケーション力のリスキリングが欠かせない。そこで、『対話のレッスン』(講談社学術文庫)、『わかりあえないことから』(講談社現代新書)、『コミュニケーション力を引き出す』(PHP新書)などの著書がある平田オリザ氏に、旧世代に染み付いているステレオタイプや習い性による弊害、世代や文化のギャップを超えた、「多文化共生」社会におけるコミュニケーションのあり方を学ぶ。

「会話」と「対話」の違い

編集部(以下青文字):「ダイバーシティ」という標語が示しているように、年齢、性別、国籍や民族などを超えて、多様性を尊重した組織や価値観、コミュニケーションが標榜されています。

 平田さんは、著書の中で日本社会独特の「わかり合う文化・察し合う文化」だけでなく、欧米のような「説明し合う文化」というコミュニケーション文化が必要であり、そのためには「会話」ではなく、「対話」が重要になると、繰り返し指摘されています。また、似て非なるものに「対論」があります。この3つの違いとともに、その中でなぜいま「対話」が最も重視されるべきなのかを教えてください。

[リーダー必修]コミュニケーション力のリスキリング芸術文化観光専門職大学 学長|劇団青年団 主宰
平田オリザORIZA HIRATA
劇作家、演出家。1962年東京都生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。同大学在学中に劇団「青年団」結成。東京藝術大学COI研究推進機構特任教授、大阪大学COデザインセンター特任教授などを歴任。2002年度から採用された国語教科書で自作のワークショップ方法論が採用され、現在に至るまで、子どものコミュニケーション教育に携わる。戯曲の代表作に『東京ノート』(岸田國士戯曲賞受賞)、『日本文学盛衰史』(鶴屋南北戯曲賞受賞)。著書に『芸術立国論』(集英社新書、2001年)、『演劇入門』(講談社現代新書、1998年)、『演技と演出』(講談社現代新書、1998年)、『わかりあえないことから』(講談社現代新書、2012年)、『対話のレッスン』(講談社学術文庫、2015年)、『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書、2016年)、『ともに生きるための演劇』(NHK出版、2022年)など多数。2021年4月より、演劇と観光を学べる日本初の国公立大学として兵庫県豊岡市に開学した芸術文化観光専門職大学初代学長に就任。江原河畔劇場・こまばアゴラ劇場芸術監督も務める。

平田(以下略):英語では、会話はconversa-tion、対話はdialogue、対論はdebateと、まったく意味が異なる言葉です。これを日本語に訳す時に、たまたま近い訳語にしてしまったことが、誤解や混同の始まりといえるでしょう。

 会話は、価値観や生活習慣の共有性が高く、親しい人同士のおしゃべりを指します。メンバー間で暗黙の了解があり、行間や背後を読む意思疎通や以心伝心といった、ハイコンテクストなコミュニケーションです。

 対話は、異なる価値観を持った人とのすり合わせ、あるいは価値観は同じでも何か対立項がある場合に、歩み寄って共通の結論を出そうとすることです。まずはお互いの理解が重要であることから、前提や背景などの説明や共有が必要となり、ローコンテクストなコミュニケーションが求められます。そうやって話し合った結果、たとえば弁証法的に、AとBという異なる意見から、Cという新しい結論が生み出されるなど、他者と出会ったことで自分の意見が変わることを潔しとするものです。

 対論は、AとBという異なる意見を戦わせた結果、勝ったほうに従うもので、ここが対話と決定的に違うところです。

 このように、会話、対話、対論は目的も用途もまったく違います。もちろん、もし自分が生まれ育ったコミュニティだけで一生暮らしていけるのであれば、会話だけで済むかもしれません。ですが、現実の社会ではそうも言ってはいられない。実際、現在の日本には、日本文化をバックグラウンドとしない人がすでに約4%住んでいるといわれています。それが10年後には、10%程度にまで増えるとの予測もある。おそらく70年後には、人口の40%くらいがクォーターになるかもしれない。多様性が大事などとのん気に言ってはいられない、言わば「多文化共生」時代は待ったなしです。

 ちなみに、私が多文化共生の話をすると、きまって「金子みすゞさんの(童謡)『みんな違って、みんないい』ですね」とおっしゃる方がいますが、そうではありません。むしろ「みんな違って、大変だ」と申し上げたい。だからこそ、対話力やそのためのコミュニケーション教育が必要なのです。

 ただし、対話を実践したからといって、劇的なメリットにあずかれるわけではありません。対話を心掛けなければ社会が崩壊してしまうから、せざるをえないだけです。まずは、そこから認識しなければいけません。なお、社員に対話力のトレーニングを施しても、「コミュニケーションが円滑になって、あちこちでイノベーションが起こりました」なんてことにはなりません。もしそのように研修を売り込む人がいたら、どうか騙されないでほしい(笑)。