ノーベル医学生理学賞を
受賞した山中伸弥
大阪市の南部・天王寺区にある国立大学の付属高校だ。「校舎」という異な表現は、正式な学校名だ。「自由」な校風で知られる。
「iPS細胞」(人工多能性幹細胞)を初めて作製し、再生医療・創薬開発への道を開いた京都大教授・山中伸弥が、2012年にノーベル医学生理学賞を受賞した。数年にわたるコロナ禍の過程で、山中は時宜を得た警句を発し、存在が改めてクローズアップされた。その山中が卒業したのが、大阪教育大学附属高校天王寺校舎だ。
山中自身だけではない。実は「一家挙げて天王寺校舎」なのだ。妻の知佳とは中学・高校を通じて同級だった。長女・美佳、次女・美樹も中学・高校の後輩だ。母と娘は3人とも関西医科大に進学、医師になった。
山中は、天王寺校舎で6年制の教育を受けたが、その後の学歴や研究生活は相当の曲折をたどっている。神戸大医学部を卒業した後、国立大阪病院臨床研修医ー大阪市大大学院医学研究科博士課程ー米カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所―大阪市立大薬理学教室助手ー奈良先端科学技術大学院大助教授・教授と異動し、04年に京大に三顧の礼をもって迎えられた。
山中は12年間務めた京都大iPS細胞研究所の所長職を22年に退き、研究の第一線に復帰した。
京大教授であることから「やはり京大卒の学者がノーベル賞か…」と早合点しそうだが、山中が卒業した大学は神戸大だ。山中ではなく「邪魔中(ジャマナカ)と冷やかされた」と本人が自嘲しているように、神戸大時代に整形外科医を目指した山中は、手術が下手で基礎研究の道に方向転換した。
山中が必ずしも飛び抜けた秀才、エリート研究者でなかったことは、以上のめまぐるしい経歴からも推察できる。
高校時代の山中は、柔道やラグビーに打ち込む文武両道型の生徒だった。天王寺校舎を巣立ったときに山中が、「『夢を大事にしたい』と言い残していったことが印象的だった」と当時の担任の先生が述懐している。
「個性を伸ばし、豊かな人間性と自主・自立の精神の育成を目指す」ことを教育目標として掲げているが、そうした校風が、あるいは山中のノーベル賞受賞の下地になったのかもしれない。