人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊される。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
ギネス記録にも掲載された感染症
致死率ほぼ一〇〇パーセント。世界でもっとも致死率が高い病気としてギネス記録にも掲載される感染症がある(1)。狂犬病だ。
毎年、世界で五~六万人が狂犬病で死亡している(2)。大半は狂犬病にかかったイヌに噛まれて感染したケースだが、ネコやコウモリ、キツネなどの野生動物から感染することもある。
世界のほとんどの地域で狂犬病は絶えず発生し、多くの人命を奪っている。ところが、日本でこの事実はあまり知られていない。
イヌやネコに噛まれたことのある人は少なくないだろうが、日々狂犬病のリスクに怯えている日本人はいないはずだ。日本は世界でもまれに見る、狂犬病清浄地域だからである。
狂犬病清浄地域とは、狂犬病が蔓延していない地域のことだ。日本以外の狂犬病清浄地域は、アイスランド、オーストラリア、グアム、ニュージーランド、ハワイ、フィジー諸島の六地域しかない(3)。
つまり、ごく一部の島国や島嶼地域だけである。日本なら狂犬病にかかる心配はないという事実は、当たり前ではない。これは、一九五〇年の狂犬病予防法の公布以後、先人たちが命の危険に晒されながら築き上げた貴重な環境だ。
日本に侵入する危険性も
一九五〇年以前は、日本でも多くの人が狂犬病で亡くなっていた。だが、狂犬病予防法によって飼い犬の登録やワクチン接種が徹底され、一九五七年に狂犬病が撲滅されたのだ。
それ以後、日本での狂犬病感染例はない。一九七〇年に一人、二〇〇六年に二人、二〇二〇年に一人、いずれも海外でイヌに噛まれたのち日本で発症し、死亡した例があるのみである。
だが、この恵まれた環境を維持することは、さほど容易ではない。狂犬病に感染した動物が日本に侵入する危険性は常にあるからだ。
動物検疫所では、海外からの動物の輸入について、厳密な規則を定めている(4)。特に狂犬病清浄地域以外からイヌやネコを日本に連れてくる場合、まず皮下へのマイクロチップの埋め込み、二回以上のワクチン接種と抗体検査、さらには日本到着まで百八十日間以上の待機期間が必要となる。
こうした地道な努力があるからこそ、私たちは日本で狂犬病の心配をすることなく生活できるのである。
紀元前から知られた狂犬病
狂犬病は、狂犬病ウイルスが引き起こす人畜共通感染症である。
人間を含むすべての哺乳類が狂犬病に感染しうるが、人から人に感染することはない。またワクチン接種によって予防が可能だ。
感染から発症までの潜伏期間は一~二カ月と長いのが特徴である。ひとたび発症すると治療法はなく、ほぼ一〇〇パーセント助からない。
一方、狂犬病の蔓延地域でイヌやネコなどの野生動物に咬まれ、狂犬病に感染した可能性がある場合は、発症を予防するためにワクチン接種を受けなければならない。これを暴露後ワクチン接種という。
日本から一歩外に出れば、狂犬病は日常的な病気である。海外での動物咬傷のリスクを知っていることが何より大切だ。狂犬病はさまざまな症状を引き起こす。発熱や頭痛、食欲不振、嘔吐などの感冒症状から始まり、興奮、錯乱状態になって幻覚が現れ、攻撃的になる。
水に過剰な恐怖を持つ
最終的には昏睡状態となり、呼吸停止に至って死亡する。狂犬病の特徴的な症状に、「恐水症状」がある。その名の通り、「水を恐れる」というものだ。狂犬病ウイルスは神経に侵入し、その機能を侵す。
水を飲もうとすると、神経が過敏になっているために喉の筋肉が痙攣し、患者が水を飲むことに過剰な恐怖を抱くのである。こうした過敏反応は風が吹くだけでも起こり、これを「恐風症状」という。症状に対する恐怖が、こうした特異な現象につながるのである。
狂犬病は紀元前から知られた病気で、古代バビロニアのハンムラビ法典にも狂犬病に関する記載があるという(5)。また一世紀の古代ローマの医学書『医学論』で、この病気は「恐水病(hydrophobia)」と命名されている(6)。
はるか昔から、この恐ろしい症状は知られていたのだ。だが何千年もの間、病気の実態は知られず、予防法もないままだった。狂犬病ワクチンが開発されたのは十九世紀になってからだ。
【参考文献】
(1) Guiness World Records「Highest mortality rate (non-inherited disease)」 (https://www.guinnessworldrecords.com/world-records/640123-highest-mortality-rate-non-inherited-disease)
(2) 厚生労働省「狂犬病」(https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/)
(3) 動物検疫所「指定地域(農林水産大臣が指定する狂犬病の清浄国・地域)」 (https://www.maff.go.jp/aqs/animal/dog/rabies-free.html)
(4) 動物検疫所「犬、猫を輸入するには」(https://www.maff.go.jp/aqs/animal/dog/import-index.html)
(5) 〝わが国における犬の狂犬病の流行と防疫の歴史〟唐仁原景昭.日本獣医史学会.2002;39.
(6) 〝第4回「狂犬病 パスツールがワクチン開発」〟加藤茂孝.モダンメディア.2015.61(3).2015
(本原稿は、山本健人著『すばらしい医学』からの抜粋です)
2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に17万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)ほか多数。
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