新日本酒紀行「田むら」蔵の横を流れる玉川上水から分水を引き込む Photo by Yohko Yamamoto

千年の大欅に見守られて201年、伝統を守り継ぐ東京の地酒

 江戸市中への給水を目的に、1653年に2人の兄弟が掘削工事を請負った玉川上水。多摩川の羽村取水堰から、四谷大木戸までの43キロメートルの大工事で、国の史跡に指定される。幕府の許可を得て、玉川上水から敷地内に田村分水を引いたのが、東京都福生市の田村家だ。福生村の名主総代で、1822年に9代目の勘次郎が、酒造りを始めた。

 分水の水で水車を回し、精米に活用。上質な酒の仕込み水を求め、敷地内に井戸を掘るがなかなか良い水は出ない。諦めずにいくつも掘り続けると、酒造りに最適な中硬水の水が湧いた。勘次郎は「これぞよき泉」と酒銘を「嘉泉」と命名。水源は奥多摩山系から秩父古生層の上を流れる伏流水とされる。

 当時の江戸の人気酒は灘の酒で、上方から来るので「下り酒」と呼ばれ、関東の酒は「下らない酒」と呼ばれた。「嘉泉」は灘の酒が売り切れる初夏から出荷し、人気を博す。昭和の級別制度時代には、高品質な酒を一級ではなく、あえて酒税の安い二級酒で出荷。瞬く間に売り切れ「まぼろしの酒」といわれ、看板商品に。