銀行強盗や交通違反などの罪をおかせば、刑務所に入れられたり、罰金を払わされたり、社会奉仕活動を命じられたりする。しかし、祖母の葬儀をすっぽかしたとか、子どもとの約束を破ったとかの咎を責める人はいない。自分以外は。
やってしまったこと、あるいは、やらなかったことに対する罪の意識は、僕たちを責め立てる。魂を苦しめ、人格を否定する。おまえは自分が思っているよりもずっと冷淡で、心が狭い、と批判する。文字にすれば取るに足りないことに見えるのに、頭のなかはそうした思いで一杯になる。
いますぐに取り組もう。そうでなければ、僕の「人生の宿題」はさらに増えて、自分自身をそしり続けることになる。
やり残した宿題のリストを作ろう
明朝、目が覚めたときは、そのための計画を立てる気持ちの準備ができていた。次の仕事を探す代わりに、一年かけて、心にひっかかっていることを片付けよう。
僕はアンドレのところへお悔やみを言いに行くべきだったし、祖母の葬儀に参列するべきだったし、ケニアの少年との約束を守るべきだった。
ほかにもやるべきだったことはたくさんあった。リストをまとめる時点で、それぞれが僕にとって、とても重要だったことはわかっていた。しかし、どうしてそうしたことをやらずにいたのかは、何カ月かたってようやく理解できた。
宿題をためてしまったのは、それが簡単なことではないからだ。厄介で、向かい合うのが怖いからなのである。
やり残した人生の宿題のリストは、心の底にある無力感、絶望、恐怖が表れたものである。実に皮肉なことだ。僕たちは人生でもっとも重要なことを、時間や余力がないからという理由で、優先順位を示すリストの一番下に置いている。
僕はいつも忙しくて時間がなく、時間を作ろうともしなかった。しかし、のちに学ぶように、時間をかけて、正しい姿勢で思いやりと根気をもって接すれば、驚くべきことが起こるのである。
過ちを正すだけでなく、自分自身が忘れていた自分の一部分を、ふたたび知ることができる。その部分を深く追っていけば、慈しみに満ちた場所に辿り着けるだろう。