「諸大名の婚姻は、秀吉の許可を得たうえで決定すること」という「掟」があったが、この「掟」は文禄四年(一五九五)八月、五大老の連署により、発布されていた。家康はそれを自ら破ったことになる。秀吉は諸大名の無断の婚姻は、同盟の構築に繋がり、不穏な動きを引き起こすとして禁止していたのだ。しかし、その一方で、秀吉は遺言にて五大老は「互いに婚姻関係を結び」と、五大老間で縁戚になることは許可していることは留意しなければいけない。

 五大老の結束を強めて秀頼を盛り立ててほしい、という秀吉の願いがあったのかもしれないが、五大老の団結こそ、場合によっては秀頼政権の脅威となることもあるので、猜疑心が強く冷酷な秀吉が、なぜこのような遺言を残したかは疑問である。

 さて、無断で大名と婚姻関係を結ぼうとしたとして、家康は四大老や五奉行から糾問されたのだが、この危機を家康はどう乗り切ったのか?

 それは、彼らに起請文(誓約書)を提出(二月五日)することで切り抜けたのだ。内容は「今度の縁組のことについては、貴方たちの言うことを承知した。今後とも恨みに思わず、以前と変わりなく、諸事、親しくしたい」「太閤様(秀吉)が定めた掟に違反したときは、十人の者が聞きつけ次第、互いに意見するように。それでも同心しなければ、残りの者が一同に意見すること」「今後、掟に背いた者は、十人が取り調べたうえ、罪科に処すこと」というものだった。

 つまり、自らの非を認め、今後は掟を守り、違反した際の対応策を記すことにより、事態の収拾をはかったのである。これにより、家康が婚姻関係を結んだ行為は不問とされた。一月二十四日には、今回の騒動は沈静化していたようなので、前述のような内容の起請文を提出するということで話がまとまり、二月五日、実際に起請文が提出されたのだ。

 家康の対応は、さすがと言っていいだろう。自分が違反や悪いことをしたのに非を認めない人もいるが、それは逆効果。火に油を注ぐだけ。それよりも、潔く違反を認め、今後は掟を遵守することを表明することにより、自らの問題行動までも不問としてしまう。家康の臨機応変な対応はうまいと言わざるを得ない(四大老や五奉行も、このときにほぼ同内容の起請文を提出している)。