名古屋城で展示されている三大天下人三大天下人(愛知県・名古屋城内の展示品) Photo:PIXTA

家康が29歳から45歳まで
居城した浜松城

「どうする家康」(4月23日放送)では、徳川家康が岡崎城を嫡男・信康に譲って浜松城に移ることが描かれていた(1570年)。このとき、妻の瀬名は岡崎にとどまって信康を後見することになる。これにより家康とは別居し、このことが、のちの信康が切腹を命じられ、瀬名も斬殺される事件の伏線になる。

 さて、この浜松城は、家康が初めて居城として選んで築城した場所である。岡崎城は祖父の代からの居城であるから、自分で選んだわけでない。浜松城は、天竜川から西へ6km離れた標高42mほどの小高い丘の上に築かれた。海からは5km、舞阪港からは10km離れている。もともと、今川家家臣だった飯尾氏の居城で曳馬城といったのを、縁起が悪いといって浜松と改称した。

 家康はここに豊臣秀吉に臣従することになって、畿内を意識するより小田原の北条氏に備えるのに便利な駿府城に移った1586年まで居城するが、これは、29歳から45歳までということになる。

 家康は最初は磐田市の見付に城を築こうとしたが、天竜川の東側では武田信玄との関係で危険であると織田信長に指摘され、浜松に変更したともいう。だが、地形などは、よく似ているので、家康の趣味であることは間違いない。

 家康はこののち、1590年に関東移封に伴い江戸城に移る。ただし、秀吉が朝鮮への派兵を始めたことで、家康も名護屋城に在陣したり、伏見城などで秀吉の側近くに仕えたため、江戸城にあったのは総計で5年くらいである。

 また、1598年の秀吉の死から関ヶ原の戦いや将軍在任期間と大御所になってからは、伏見城が家康の居城だった。そして、1607年には駿府城に戻って1616年に亡くなるまで在城した。

 こうした引っ越しの経緯や、家康が息子たちのために選んだ居城から、家康の城についての趣味というものが見えてくるので、それを論じたい。だが、その前に、近世の城下町が成立するまでの歴史を簡単に見ていこう。