静岡県浜松城Photo:PIXTA

戦国時代の天下人である徳川家康。その波乱万丈な人生の中では、2023年のNHK大河ドラマのタイトル『どうする家康』のように「どうする?」と自問したこともあったはず。そんな時、どんな決断をして、どのように困難を切り抜けてきたのでしょうか。濱田浩一郎『家康クライシス-天下人の危機回避術-』(ワニブックスPLUS新書)から一部を抜粋・編集し、家康の生き方から対応力や危機回避術を読み解いてみましょう。

秀吉の遺言を破った家康の危機対応力

 慶長三年(一五九八)八月、天下人・豊臣秀吉は京都の伏見城で死去した。六十二歳だった。後継者で息子の豊臣秀頼が幼少ということもあり、秀吉の死は直後には公表されなかった(公表は同年末である)。秀吉死後の最初の大仕事は、朝鮮に出兵している部隊の撤退であった。

「五奉行」の浅野長政・石田三成らは博多に下り、同事業を現場で担当した(朝鮮にいた諸将は、十二月には博多に帰還)。九月三日には、「五大老」(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と「五奉行」(石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家)が秀頼に忠誠を尽くすという起請文を認めた。

 慶長四年(一五九九)正月十日、秀頼は父・秀吉の「大坂城に入城」との遺言に従い、大坂城に入る。家康はこれにお供しているが、すぐに伏見城に戻っている。秀吉の遺言に「家康は伏見城の留守居の責任者とする」「家康は三年間、在京しなければならない」というものがあったからだ。

 家康は秀吉の遺命を守っているかに見えるが、実はそうではなかった。そのことで、慶長四年正月十九日、家康は四大老や五奉行から糾問(きゅうもん)されるのだ。このとき、家康に心を寄せる豊臣系武将(加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田如水・黒田長政・池田輝政ら)が、家康の伏見屋敷に馳せ集まり、大坂と伏見が不穏な空気に包まれたという説もあるが、公家・山科言経の日記には、騒動や大名たちの軍事行動を窺わせるような記述はない(言経は、一月二十一日、伏見で家康と対面)。

 それにしても、家康はいったい何をして、糾問される事態となったのか。実は以前に、家康は自らの息子や養女を諸大名に嫁がせることを約束していたのだ。家康の六男・松平忠輝を伊達政宗の娘(五郎八姫)に、家康の姪で養女としたものを福島正則の嫡男(正之)へ、小笠原秀政の娘を養女とし蜂須賀家政の嫡子(豊雄)へというように、家康は諸大名と無断で婚姻関係を結ぼうとした。