上皇ご夫妻Photo:Pool/gettyimages

「正田美智子さん」という
大スターの誕生

 皇太子妃に「正田美智子さん」が決まったときは、衝撃の大スター誕生だった。女優並みの美貌、学生自治会長、卒業式の総代、語学堪能でスポーツ万能、ピアノも上手で文学的才能もあった。受け答えもそつないだけでなく知性が感じられた。

 実家の写真も盛んに紹介されたが、マントルピースまである御殿山の洋館は、当時の日本人にとって憧れの的だった。品のいい紳士である父親・英三郎氏と母親・富美子氏も好ましかった。

「もはや戦後が終わった」といわれた時代の日本人に、欧米並みの豊かで文化的な将来を約束するアイコンというべき一家だったのである。

 皇太子殿下との出会いが、軽井沢のテニスコートだったというのも、映画の一場面のような印象を与えた。

 ただ、その一方で、この結婚は、旧華族などの人にとっては、単に「平民である」という以上に衝撃だった。特に皇族の女性たちは猛反発した。

 というのは、正田家は華族でないというのみならず、親戚を見渡しても学習院とか華族社会と縁がない一族で、敬虔(けいけん)なカトリック教徒でもあったからだ。

 正田家はかつて、上野国新田郡を本拠とした新田一族と称した。家康が関東移封された際には、同じく上野国新田郡の出身という徳川氏の先祖の話が、地元でどう伝えられてきたか、家康から聞かれている。そこで家康の喜ぶような説明をすれば旗本にでもなったのだろうが、そうはならなかった。

 ルーツは群馬県の太田市(旧尾島町)だが、館林市で米穀商を営み、明治になるとしょうゆ製造に進出した。そして、美智子さまの祖父の貞一郎氏が製粉業を始め、これが日清製粉に発展した。

 美智子さまの母方の副島家は、佐賀県多久市を本拠とする佐賀藩家老多久氏の家臣だが、商業を営み裕福だった。美智子さまの母方の祖父である綱雄氏は中国で商社員として働いていたが、大正時代に江商にスカウトされ上海支店長になり、その娘であり美智子さまの母である富美子氏は上海で生まれた。

 綱雄氏は東京に移ったが、日中戦争が始まると、中支那振興という利権管理会社が設立され、その経営に当たるために単身上海に渡った。